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日本人の物語01354【室町/義教期】大和永享の乱勃発

南北朝時代が終わってだいぶ経ちますが、奈良県ではまだまだ旧南朝勢力が頑張っています。

 「永享」に改元されたものの、鎌倉府は引き続き「正長」を用いているので、ここからは元号を2つ併記しながら話を進めていきます。
 永享改元の直後、大和国で「大和永享の乱」と呼ばれる戦乱が起こります。
 大和国では元々、南朝方・越智氏と北朝方・筒井氏が激しく争っていました。やがて北朝方が勝利して筒井氏が大和国の枢要部を支配しましたが、越智氏も大和国南部を中心に一定の勢力を維持し、紛争は続いていました。
 永享元/正長2(1429)年6月。北朝方の国人・井戸氏が南朝方の僧・頓称坊(とんしょうぼう:?~1429)を殺害する事件が起こりました。これは北朝方筒井氏と南朝方越智氏の代理戦争といってもよい争いでした。
 7月になって、南朝方の越智氏・豊田氏・箸尾氏が頓称坊の仇を討つべく筒井氏を攻撃しました。興福寺と幕府は双方に停戦を勧告しましたが双方とも従わず、戦いはやみません。
 戦闘が拡大する中で、永享2/正長3(1430)年2月には幕府から興福寺に対し、南朝方豊田氏討伐の命令が出ました。
 幕府は南朝方が勢いを取り戻さぬよう、合わせて懐柔策も進めています。反乱を起こして鎮圧された北畠満雅の遺児・教具(のりとも:1423~1471)に対して家督相続を認めたのです。満済と赤松満祐がとりなしたおかげだそうですが、越智氏・豊田氏・箸尾氏と結び付くのを恐れてのことでしょう。
 大和情勢が悪化する中で、幕府・鎌倉府関係も相変わらず緊張関係が続いています。7月には、京都御扶持衆として幕府方に仕える那須太郎(なすたろう)と白河結城氏朝が那須黒羽城(栃木県大田原市)に立て籠もり、持氏との対決に臨みました。那須・結城を支援して鎌倉府に一撃を加えたい篠川公方満直は、幕府に対して盛んに援軍を要請します。
 持氏をどうにかして滅ぼしたい義教は、もちろん援軍に積極的でしたが、諸大名に慎重派が多かったため派遣は見送られ、満直には
「粗忽な行動はとらずにひとまず様子を見るように」
との指示が下りました。
 しかし満直は早く戦いたくて仕方がないらしく、8月10日付けで幕府に
「(持氏成敗の後は)関東の政務のことは私にお任せください」
と僭越ともいえる内容を書き送った書状が現存しています。
 大和永享の乱もなかなかやまず、翌永享3/正長4(1431)年8月24日には筒井氏が箸尾城(奈良県広陵町)を焼き討ちし、報復として箸尾氏が筒井方の蓬莱城(奈良県奈良市)を攻め落とすなど、戦乱は拡大していきました。この戦いは永享11(1439)年まで続きます。

ずっと争っているのに、いまいち派手な戦いは起きないという状況が続いてますね。

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