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日本人の物語01076【南北朝中期】神南の戦い 川村頼秀の忠義

それにしても太平記はめちゃくちゃ長いですよね。鎌倉幕府を倒そうとしていた頃が懐かしいです。

 敗走していく山名勢でしたが、山名師義の配下の兵たちはそもそも挙兵した時点で死を覚悟していた猛者たちでした。一族郎党263人が何度も引き返して追っ手と戦い、犠牲を出しながら大将を逃がしていきました。
 師義自身も追っ手と戦い、左の眼から小耳の付け根にかけて矢を射られ、目もくらみ気力を失うほどの重傷を負い、どうにか態勢を立て直そうと太刀を逆さまに突いて立ち上がろうとしたところに、さらに敵から雨のように矢が降りかかってきます。これが馬の腹や胸に刺さったため、馬は使い物にならなくなりました。
 もはやこれまでと、師義は腰の刀を抜いて自害しようとしますが、家臣の川村頼秀(かわむらよりひで:?~1355)が必死にそれを止め、師義を自分の馬に乗せました。馬を失った川村は徒歩になり、追跡してきた敵と斬り違えて戦死します。
 師義は流れる血が目に入って何も見えませんでしたが、川村が戦死したことはどうにか理解できました。
「馬の回りに誰かいないか。この馬の口を敵の方に向けよ。そこへ駆け込んで、川村の死骸の上で私は討ち死にする」
と叫んだのを、家臣の福間三郎(ふくまさぶろう)が、
「こちらが敵の方角です」
と言って、馬を敵と逆の方向に向け、走らせました。師義は2人の家臣が忠義を尽くしたおかげでどうにか生還することができたのです。
 こうして神南の戦いは、当初優勢だった山名勢の逆転負けに終わりました。
 淀へ帰った山名師義は、今回の戦で戦死した者たちの名を故郷・因幡に書き送り、菩提を弔わせました。特に川村頼秀は師義に代わって討ち死にした忠義の者なので、師義は敵軍に依頼して首をもらい受け、
「前々からそなたは私を父のごとく思い、私はそなたを子のごとく思っていた。戦場に臨むに当たり、そなたが生きるなら私も生き、そなたが死ぬなら私も死のうと約束していたのに。そなたが梢の露のように先立ち、私が根元の滴のように生き残ったけれども、再会するのはきっと極楽浄土の高殿であろう」
と泣きながら鬢を撫でて嘆いたといいます。
 さて、神南の戦いは終わりましたが、続いてはそれと並行して起こった第六次京都合戦に触れなければなりません。

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