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日本人の物語00629【鎌倉前期】85代仲恭天皇

 鎌倉幕府との関係が緊張する中、後鳥羽上皇のワンマンぶりは止まりません。
 承久2(1220)年2月13日に行われた歌合で、藤原定家は自らを重用してくれない後鳥羽上皇への不満をあらわにしました。定家が詠んだ歌は次のようなものです。
「さやかにも みるべき山は かすみつつ わが身の外も 春の夜の月」
(はっきり見えるはずの山は霞み、月もおぼろだが、この良夜は私には関わりのないことだ)
 ひどく投げやりな歌ですが、「私は閑職に就いており疎外されている」といった意味でしょう。
「道の辺の 野原の柳 下もえぬ あはれなげきの けぶりくらべに」
(道の辺の野原の柳が萌え始めた。あたかも立ち昇る私の嘆きの煙と競い合うようだ)
 2首目は説明が必要です。かつて建暦3(1213)年1月28日に、検非違使が突然定家邸へやってきて、庭の柳2本を掘り起こして持って行ったことがありました。後鳥羽上皇の宮殿の柳が枯れたから、勅命によって徴発されたのでした。この歌はそのことへの不満をぶちまけたものでした。
 この2首を聞いた後鳥羽上皇は激怒し、定家を閉門としました。定家は公式会合への出席を禁じられ、歌合にも参加できなくなってしまいます。
 その後、後鳥羽上皇にとって僥倖となる幕府内の内紛がありました。
 かつて足助重長(あすけしげなが:?~1181)の娘が2代将軍頼家の側室となり、次男・栄実と四男・禅暁を出産したのですが、彼女は夫の死後、三浦胤義に嫁いでいました。三浦胤義といえば有力御家人・三浦義村の弟で、幕府内でも一定の影響力を持つ人物です。胤義は妻の連れ子である栄実と禅暁の後見人となってしましたが、和田合戦の直後に栄実が謀反のかどで殺されたことに不満を感じていました。
 4月14日、今度は仁和寺で修行していた禅暁が、公暁の企てに加わったとして幕府の手で殺害されてしまいます。禅暁は実朝暗殺当時、京の仁和寺にいたわけですから、実朝暗殺計画に関わっていたとは到底思えないのですが、幕府としては頼家の子を根絶やしにしておかなければ安心できなかったのでしょう。これで頼家の男子4人(一幡・公暁・栄実・禅暁)は全て殺害されたこととなります。
 三浦胤義は激怒します。そしてこの好機を逃さぬ後鳥羽上皇ではありません。胤義は元々、京の六波羅に詰めている御家人で後鳥羽上皇にも仕えるべき立場にいることから、上皇に軽々と言い含められ、たちまち朝廷の味方となってしまいました。
 幕府転覆を狙う後鳥羽上皇は、次男の順徳天皇に「譲位して計画に参画せよ」と命じました。承久3(1221)年4月20日、順徳天皇が子の仲恭天皇に譲位し、身軽な立場となったところで、いよいよ承久の乱の火蓋が切って落とされます。

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