日本人の物語01462【室町/西国/大乱前夜】後南朝の挙兵
あけましておめでとうございます。元日から物騒な話で始まります。
文安4(1447)年12月22日。紀伊国北山(和歌山県北山村と奈良県下北山村のいずれかとみられる)に潜んでいた「南方宮方(なんぽうみやがた)」が蜂起した事件がありました。「南方宮方」とは、つまり南朝方の皇族という意味です。
南北朝合一から50年以上が経過した今、まだ南朝方の皇族がいたのかと驚きですが、一体どんな人物なのでしょうか。
中原康富(なかはらのやすとみ)の日記『康富記』をみると、この3年前の文安元(1444)年8月19日に、紀伊国で南朝勢力が挙兵したとの記事があります。その記事によると、
・挙兵は上野宮(うえののみや)という人物を奉じたものだった
・あわせて円満院円胤(えんまんいんえんいん:1407~1447)という後村上天皇の孫が決起した
との情報があるのですが、上野宮なる人物が後醍醐天皇の子孫かどうかは今もって不明です。
その後長期に渡って関連記事もないことから、このときの決起はさほど盛り上がらずに終結し、3年経って再び決起したものと思われますが、吉野でも賀名生でもなく、北山という更なる奥地で挙兵しているあたり、南朝勢力の凋落は明らかです。ちなみに和歌山県北山村は日本で唯一、土地全体が飛び地である自治体として知られ、和歌山県に属していながら三重県と奈良県にのみ挟まれた山村であり、かなりの奥地です。
蜂起した上野宮と円満院円胤は、紀伊守護・畠山持国によって討ち取られました。以前、通蔵主・金蔵主という南朝皇族の兄弟が討たれたり斬首されたりしたことがありましたが(01448回参照)、今回も皇族相手に容赦ありません。
文安5(1448)年1月10日に、その南朝皇族の首が京に届きましたが、幕府はその首実検を自らで行わず公家に任せることにしました。さすがに皇族の首を武士たちが検分するのは不敬だろうというわけです。討ち取ること自体が不敬な気がしますが。
関白・一条兼良からは
「大路を渡さるべからず。獄門に懸くべからず」
との指示があり、首は丁重に扱われました。
後南朝との争いはこの後も続きます。有名な「長禄の変」がありますし、応仁の乱でも西軍が南朝皇族を奉じたとの記録があります。南朝皇族の系図も徐々に不透明になっていき、本当に皇族なのかどうか分からない人物も出てきますが、室町幕府にとって後南朝勢力というのはまだまだ警戒すべき相手だったようです。
今年一年連載すると、戦国時代が始まるところまでは行きそうですが、信長登場までは行かない気がします。
