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日本人の物語00969【南北朝初期】光厳上皇の密通

これまでひたすら可哀想なエピソードしかなかった光厳院ですが、今日取り上げるのは「あらあら、やることやってんな」というお話です。しかもこれは太平記ではなく本人直筆の史料が残ってるやつです。

 ここで北朝の皇位継承問題に目を転じてみましょう。この頃、北朝には重鎮・光厳上皇が君臨していました。光明天皇は光厳上皇の弟で、皇太子・興仁親王(おきひとしんのう:後の崇光天皇:1334~1398)は光厳上皇の長男です。
 興国4/康永2(1343)年4月13日。29歳の光厳上皇は、8歳の長男・興仁親王に対して手紙を書き送りました。この手紙は
『光厳院宸翰御置文(こうごんいんしんかんおおきぶみ)』
と呼ばれ、現物が現存しているのですが、あまりに衝撃的な内容なのです。
「今後の皇位のことについて書き留めておく。そなたはやがて天皇として即位することとなるが、そなたの子孫に皇位を引き継いではならない。もし男子が産まれれば必ず仏門に入れるように。そなたの次は直仁を即位させ、その後も直仁の子孫に引き継いでいくように」
 直仁親王(なおひとしんのう:1335~1398)とは、花園法皇と正親町実子(おおぎまちさねこ)との間に産まれた子であり、この時点で8歳です。つまり光厳上皇から見ると20歳も年下の従弟なのですが、なぜ上皇は直仁に皇位を継がせたがっているのでしょうか。
 その驚くべき理由が、手紙の続きを読めば分かります。
「直仁のことを皆は(花園)法皇の子だと思っているが、実は私の子なのだ。去る建武2年5月、直仁が未だ母の胎内にいたときに、私のもとに春日大明神からの霊験があり、私の子であることが分かったのだ。これは私と母のほか、他人は一切知らないことである。去年そなたが皇太子となった際、まだしかるべき時が来ていないと思って、話すことができなかったのだ」
 なんと、光厳上皇は、叔父である花園法皇の妃・正親町実子と密通していたというのです。しかもこの手紙は花園法皇が存命のうちに書かれています。何とも大胆です。
 花園法皇といえば、甥である光厳に対して『誡太子書』と呼ばれる文書を書き送り、
・天皇に即位するからには、徳を積まなければならない
・徳を積むためには学問を深めなければならない
と説き、皇太子・徳仁親王(当時)が感銘を受けた文書として取り上げたこともあるほどです(00735回参照)。
 ところが「叔父の心、甥知らず」といったところでしょうか。叔父からこの『誡太子書』を受け取った光厳院は、徳を積むどころか叔父の妃に手を出して妊娠させているわけです。しかもそれを悪びれる様子もなく、その隠し子に皇位を継がせるべく実子に申し入れているわけですから、善悪の観念が欠落していると言わざるを得ません。

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