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日本人の物語00417【平安後期】78代二条天皇

 保元の乱が終結し、これ以降に最高権力者として腕を振るったのは、信西でした。信西は、乱終結直後の保元元(1156)年10月20日に「記録所」を設置して、荘園整理を始めます。
 荘園整理とは、あまりに認められすぎた既得権益を剥奪し、財政を再建するための政策で、これまで多くの為政者が失敗してきたものです。後三条天皇が「延久の荘園整理令」を出して、ようやくこれを成功させましたが、その後また特権を認められた荘園が増えてきたため、再び整理の必要が生じたというわけです。
 さて、信西と並んで、この時代に突然抜きん出て昇進を重ねた人物がいました。藤原信頼(ふじわらののぶより:1113~1160)といいます。これこそが、保元の乱の3年後の「平治の乱」を起こす中心人物です。
 保元3(1158)年。後白河天皇は信頼をひどく優遇していました。平治の乱を描く『平治物語』によると、信頼は「太りせめたる大の男」、つまりひどく太っていたといいます。そして、「文にあらず武にあらず。能もなく芸もなく、ただ朝恩にのみほこり」と評されています。つまり、何の能力も芸もないのに、単に天皇に好かれたというだけで昇進を重ねていったというのです。一説には「後白河天皇と男色の相手であった」ともいわれます。
 ちなみに大河ドラマ『平清盛』では、この藤原信頼をドランクドラゴンの塚地武雅が演じていました。塚地はキモキャラを演じさせるとピカイチで、まさにはまり役でした。
 信西は才覚に優れ、荘園整理に注力するなど社会課題の解決に積極的でした。そういう信西が登用されて出世するのは分かるのですが、信頼は無能な男なのに天皇から引き上げられたというわけです。
 信頼は天皇の権威を傘に、専横を極めます。
 賀茂祭の際、信頼は藤原氏の氏長者・忠通の桟敷の前を下車せず通ろうとしました。これは礼を失する振る舞いです。忠通の下人たちは、怒って信頼の車を壊し始めました。
 さて、この事件について信頼が後白河天皇に訴えたところ、なんと忠通は閉門処分(謹慎)となってしまいました。天皇の信頼ひいきはあまりに露骨と言わざるを得ません。
 時折りしも、天皇の譲位が取り沙汰されていました。そもそも後白河天皇が即位したのは、子の守仁親王が即位するまでの中継ぎという話でしたね。守仁親王も15歳となり、そろそろ即位にふさわしい年齢です。守仁親王の養母・美福門院得子の要求により、8月11日に後白河は譲位し、守仁親王が即位しました。二条天皇です。
 同日、関白についても任官がありました。謹慎中の忠通は関白を辞し、その四男である基実(もとざね:1143~1166)が16歳で関白に就任することとなりました。
 後白河上皇の院政が始まり、信西と藤原信頼、2人の側近はますます引き立てられていきます。

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