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日本人の物語00285【平安前期】61代朱雀天皇

 藤原時平と醍醐天皇の関係者が次々と亡くなり、公卿たちは道真の怨霊を大いに恐れていました。そしていよいよ、決定打となる事件が起こります。
 延長8(930)年6月26日、太政官会議のさなか、清涼殿の柱に落雷があったのです。この落雷による被害は次のとおりです。
・大納言民部卿・藤原清貫(ふじわらのきよつら)が胸を焼かれ即死。
・右中弁内蔵頭・平希世(たいらのまれよ)が顔を焼かれ死亡。
・右兵衛佐・美怒忠包(みぬのただかね)が髪を焼かれ死亡。
・紀蔭連(きのかげつら)が腹を焼かれ死亡。
・安曇宗仁(あずみのむねひと)が膝を焼かれ死亡。
・さらに警備の近衛が3人死亡。
 なんと、死んだのはいずれも時平派の公卿でした。道真が後に雷の神とされた理由は、藤原菅根の落雷死もありますが、何よりも清涼殿落雷事件のためなのですね。
 この事件をきっかけに、醍醐天皇は道真の怨霊を恐れ、病に臥してしまいます。
 9月22日。病のため醍醐天皇は譲位し、寛明親王が7歳3ヶ月で即位しました。朱雀天皇です。天皇が幼少であったため、藤原忠平が摂政に就任しました。
 忠平は時平の弟ですが、道真の怨霊による被害を受けていませんね。世間の噂によると、忠平は人格者として知られ、大宰府左遷後の道真に対しても文を送るなど気遣いをしていたので、祟りに遭わなかったというのです。
 朱雀天皇は幼少ということもあり、ここからは藤原忠平が政治の主役となっていきます。
 譲位後まもなくの9月29日、醍醐天皇は崩御しました。45歳でした。
 さて、平安時代前期の稿はこの延長8(930)年の醍醐天皇崩御をもって終了します。ただ、承平6(936)年に時平の長男・保忠(やすただ:890~936)が46歳で死去したことや、天慶10(947)年に朝廷が北野に社殿を造営し、道真を祀ることとし、これが北野天満宮の起こりとなったことを付け加えておきましょう。
 道真はその後雷の神として、さらには学問の神として後世まで祀られていくことになります。「天神」又は「天満宮」を名乗る神社は全て道真を祭神とするものです。
 道真といえば漢詩の名手なのですが、百人一首にも歌が収録されていますね。
「このたびは ぬさもとりあへず 手向山 紅葉の錦 神のまにまに」
 神に捧げるべき「幣(ぬさ)」の用意がなかったので、とりあえず紅葉を奉納したいということですね。即興で詠んだものらしく、あまり面白い歌ではありません。時平の方が道真よりも和歌が上手かったのに、道真だけが百人一首に選ばれているのは、やはり世間の人気が高かったからでしょう。
 時平は政務能力にも長けていたのに、これほど後世の人々から嫌われているのは若干気の毒な気もしますね。

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