日本人の物語01365【室町/義教期】武田信長出奔
全国あちこちで戦乱が始まっていて、もう地域ごとにチャプターを分けた方が良い気がしてきました。
翌永享5(1433)年になっても、各国の内紛は終わるどころか新たなものが噴き出すばかりです。
まず3月、甲斐国の主導権をめぐって守護代の跡部明海と対立した武田信長が、鎌倉から出奔しました。鎌倉府はこれを反乱とみなし、討伐軍を派遣します。4月末になって、信長は甲斐荒川(山梨県韮崎市)で跡部軍に敗れ没落していきました。
一方、4月8日には大内持世軍が、豊前国篠崎(福岡県北九州市)において反乱軍の大将・大内持盛を討ちました。知らせを聞いた満済は「御祝着千万」と喜んでいます。4月20日には持盛の従兄弟に当たる満世も京都で追い詰められ、自害しました。
甲斐情勢も周防情勢も、一見すると幕府方が勝利していて順調に見えますが、幕府は確実に敵を増やしています。
同じ4月には、前年から後継問題をめぐって揉めていた今川家に、範忠の弟・範勝(のりかつ)を擁立する一派が出現し、今川家は
・幕府の意向に従って、先代(範政)が廃嫡してしまった範忠を擁立するグループ
・先代の意向通り千代秋丸(後の小鹿範頼)を擁立するグループ
・第三の案として範勝を擁立するグループ
の3派に分かれてしまいました。このうち、千代秋丸派は鎌倉府(持氏)を引き入れようとしているとの風聞もあります。
幕府は当初から範忠を推す方針でいましたが、駿河に派遣した幕府の使者がそうと知らずに範勝への相続を認めてしまい、混乱に拍車をかけました。そんな中、5月27日に先代の範政が病没してしまいます。
駿河の内紛は、甲斐の内紛と思わぬつながりを見せることになります。6月に甲斐の武田信長が駿河に逃げ込んだのです。幕府に反感を持つ者同士で連携するつもりなのでしょう。
鎌倉府は駿河への出兵許可を幕府に求めますが、鎌倉府は千代秋丸に肩入れしているとの情報もあり、幕府は許可を出しません。幕府は鎌倉府の介入を許さず自らが直接駿河に介入し、武田信長の追放を図りますが、武田信長は神出鬼没でなかなか尻尾を出しません。
6月下旬になって、幕府は廃嫡されたはずの範忠を無理やり駿河守護に据えました。駿河国内に強硬な反対派が大勢いる中で7月中旬に領国入りした範忠は、敵からの襲撃を受けつつもどうにか任地に辿り着くことができました。
振り返ってみると、義満の時代には幕府に逆らって生き延びた者はほとんどいませんでした。しかし義教の時代になると、幕府は反乱をなかなか鎮圧できずにいます。しかもその反乱のうちいくつかは、幕府から家督相続に介入して惹起させたものなのです。これでは将軍の権威は揺らぐばかりでしょう。
今川家の分家で「小鹿家」というのが出てきますが、これは静岡市駿河区内の地名だそうです。
