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日本人の物語00416【平安後期】保元の乱 源為朝の最期

 最後に、崇徳上皇方の最強武士である弓の達人・源為朝のその後について見ていきましょう。
 為朝は近江で捕らえられ、伊豆大島に流罪となりました。このとき、後白河天皇が
「身が達者なままではまた朝敵となるから、肩を外せ」
と指示したため、肩の骨を外すという残酷な刑が執行されました。
 ところが、為朝はこの程度でへこたれる人間ではありませんでした。流罪後、為朝に年貢を納めるよう指示した伊豆の領主・工藤茂光(くどうもちみつ:?~1180)の軍勢を破り、伊豆大島、三宅島、神津島、八丈島、利島、新島、御蔵島を次々と占領したのです。
 この工藤茂光の訴えにより、嘉応2(1170)年、為朝追討のための大軍が伊豆大島に押し寄せ、為朝は遂に観念して自害しました。ここまでは創作ではなく史実です。
 伊豆大島での創作エピソードとしては、為朝が伊豆大島から放った矢が鎌倉の材木座海岸に突き刺さった、為朝追討のため派遣された軍船が、矢で射ぬかれて沈没したなどがあります。
 為朝が死んだ後も、人気は衰えません。その後も生存説が囁かれ、
「琉球に渡り中山王の祖となった」
といった伝説すらあります。江戸時代に流行した小説『椿説弓張月』も、その伝説に則ったものです。
 江戸時代には、尾張藩士・天野信景(あまのさだかげ:1663~1733)が随筆『塩尻』にこんなエピソードを記しています。
 当時、徳川将軍家は毎年5月に、八丈島にある為朝像に鉄の鎧を供えることになっていました。正徳2(1712)年にも将軍家からその指示がありましたが、島民が指示を取り違え、
「為朝像を江戸に持参せよ」
という指示と勘違いして、島民70名が像を舟に乗せて江戸へと向かいました。
 6代将軍徳川家宣は、
「神像を移動させるとはけしからん」
と思ったものの、せっかく島民たちが持ってきたのだからということで、そのまま像を江戸城内に安置することとなりました。島民たちには褒美が与えられ、島に返されました。
 ところが帰りの船内で、島民たちは次々と熱病を発症し、帰島後に次々と死んでいきました。
 八丈島では400人あまりが熱病で死に、為朝像を移動させたことによる祟りだろうと恐れられました。まもなく将軍家宣までもが病死し、為朝の怨霊はひどく恐れられたといいます。
 為朝は今も八丈島で丁重に祀られています。

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