日本人の物語01303【室町/義持期】山入降伏
そういえば東海・畿内・中国・九州については「この国の守護は誰でしょう」というと数人の名前が思い浮かぶのですが、関東については守護が誰なのか、全く覚えていません。関東は鎌倉公方と関東管領の存在感が大きすぎて、守護がいまいち活躍していないようですね。
義持と持氏は互いに歩み寄りを見せていたものの、
・犬懸上杉禅秀の不在で空いた上総守護
・武田信満の不在で空いた甲斐守護
に誰を据えるかをめぐり、またまた揉めることとなります。
応永24(1417)年8月。幕府は上総守護に宇都宮持綱(うつのみやもちつな:1396~1423)を充ててほしいと鎌倉府に推挙して来ました。持綱はいち早く幕府に内応してきたので、恩賞をやるべきだというのです。しかし10月になって持氏はこれを拒否しました。
同じ8月には甲斐守護人事をめぐるトラブルもありました。信満の次男・武田信長(たけだのぶなが:?~1477)は乱に直接参画していたので家督を継がせるわけにいきません。一方、連座を恐れて高野山に遁世していた信満の弟の穴山満春(あなやまみつはる)については、いち早く幕府に内応したのだから恩賞をやるべきだと幕府は主張し、「武田信元」と名乗らせた上で甲斐守護職に推挙してきました。ところが、持氏は甲斐の国人・逸見有直(へみありなお)を守護職に充てようとしていたので、意見が対立してしまいます。
結局、義持と持氏の対立は深まるばかりでした。間で仲裁役を務める憲基が唯一の希望だったといえるでしょう。
しかし翌応永25(1418)年1月4日、憲基は実子を持たぬまま病死してしまいます。憲基の従弟である9歳の憲実(のりざね:1410?~1466)が越後上杉家から急遽養子に迎えられて山内上杉家を継ぎましたが、関東管領は当面欠員のままとなります。
憲実は翌年8月頃に10歳で関東管領となりますが、当然持氏を止められるわけがありません。融和政策は終わり、持氏を諫める者は完全にいなくなってしまいました。
さて、憲基が病死したのと同じ頃、常陸では憲基の弟に当たる佐竹義人が、禅秀残党の筆頭たる山入与義の立て籠もる国安城を包囲していました。
義人としても、山入勢の兵の中には佐竹家に長年尽くしてきた者たちもおり、できれば殺さずに済ませたいと考えていました。そこで、山入一族出身の小田野自義の献策を容れ、水源を絶って籠城を困難にし、降伏を迫る作戦に出ました。
水を絶たれた山入与義はさすがに降伏し、義人と与義の会見が行われました。義人はあくまで低姿勢に
「これまでのことは水に流し、改めて佐竹のために力を尽くしてくれないか」
と述べました。反乱軍に対しての態度とは思えない寛大な申し出です。
しかし山入与義は頑として義人が主君であることを受け入れませんでした。提案を蹴った与義は剃髪し、義人への出仕を拒否したのです。
このあたり、専門家が佐竹家文書をまとめた大内政之介『佐竹秘史』という本を元にしています。茨城県内の古書店をめぐって入手した本です。
