日本人の物語01308【室町/義持期】富樫満成誅殺
室町時代からは「半国守護」という概念が出てきます。守護になるべき有力者が増えてきて(あるいはお家の分裂が起こって)、ある国の半分をXさんに、残り半分をYさんにそれぞれ治めさせることです。
上杉禅秀の乱の余波が覚めやらぬ中、応永25(1418)年8月10日に斯波義重が死去し、嫡子の義淳が家督を継ぎました。斯波家の勢いは弱まっていくばかりです。
かねてより揉めていた上総守護人事をめぐっては、長い交渉の末、9月になってようやく持氏が宇都宮持綱の就任を認めました。意外にも幕府に譲歩した形です。
勢いに乗って、10月12日に幕府は常陸守護に佐竹家庶流の山入与義を推挙しましたが、こちらは持氏に拒絶されました。そもそも山入家は佐竹本家を山内上杉家からの養子・佐竹義人に乗っ取られたせいで、鎌倉公方持氏に反発していました。与義はその反持氏派の中心人物だったので、当然持氏には受け入れられない人事です。
ところが、幕府も持氏に強気に出られる状況ではなくなりました。禅秀の乱で有力守護たちの関与が次々と明らかになる中、一定のところで妥協して処罰を断念しようとする義持に対し、義持の近臣・富樫満成は徹底追及する姿勢を見せており、諸大名の怒りを買っていました。この富樫満成に時ならぬスキャンダルが発覚したのです。
スキャンダルを暴露したのは義嗣の元愛妾・林歌局(りんかのつぼね)という女性でした。林歌局は
「義嗣に謀反を勧めたのは満成だ。それが露見しそうになったから義嗣を殺させたのだ」
と訴え出て、富樫満成こそが首謀者だと主張したのです。
11月24日。富樫満成は逃げるように高野山に逐電していきました。元々、満成はその傍若無人な振る舞いで他の守護といつも揉めていましたから、満成を弁護する者は一人もいませんでした。
義持は加賀北半国の守護職を、満成からその兄・富樫満春(とがしみつはる:?~1427)に移しました。満成はクビというわけです。それまでは満春が南半国、満成が北半国という形で、加賀を兄弟2人で統治していたのですが、これにより満春が一国まるまるの守護となりました。
翌応永26(1419)年2月4日。義持の命を受けた畠山満家によって、富樫満成は河内国で斬られました。免罪するとの御教書でおびき出された上での殺害ですから、何とも酷い話です。
富樫満成誅殺は、義持と有力守護たちの危うい権力バランスが崩れることを防ぐために行われたものでした。恐らく義持は、有力守護の糾弾をあくまでも続けようとする満成を止められず、もはや満成を殺すしか方法がなくなったのでしょう。信頼できる側近に(恐らくは)根も葉もないスキャンダルを背負わせた上で殺してまでも、義持は細川満元らを敵に回したくなかったのです。
こうしてみると、義持の権力は父・義満に比べるとまだまだといった印象ですね。
