日本人の物語00137【人代後期】大泊瀬皇子の大粛清
安康天皇の死を知り、弟である大泊瀬皇子はいきり立ちました。気性の荒いことで有名な、あの大泊瀬皇子です。
大泊瀬皇子は「この事件は単独犯ではなく、誰か裏で操っている人間がいるのではないか」と疑いました。まあ7歳の少年による殺人ですから、そう疑うこと自体は理解できます。
大泊瀬皇子は兄の八釣白彦皇子(やつりしろひこのみこ)のところへ行き、問い詰めます。このとき、八釣白彦皇子は声が上ずっていました。
その様子を見た大泊瀬皇子は、兄が共犯者だと見て斬り殺してしまいます。ちょっと判断が早すぎると思うのですが。
大泊瀬皇子は、さらに別の兄の坂合黒彦皇子(さかあいのくろひこのみこ)の共謀を疑いました。坂合黒彦皇子は大泊瀬皇子を恐れ、眉輪王を連れて大臣の葛城円(かつらぎのつぶら)の家に逃げ込みます。眉輪王を連れて逃げている時点で、共犯者のような気がしますが、このあたり日本書紀は妙に口が重く、本当に共犯だったのかどうか判然としません。
大泊瀬皇子は軍勢を率いて、葛城円の館を取り囲みました。葛城円は、
「私を頼ってきた眉輪王を見捨てることはできない」
と戦いに挑みますが、館に火を放たれ、坂合黒彦皇子と眉輪王ともども焼死することとなりました。この館跡は奈良県御所市内にあります。
ここまでは、安康天皇暗殺に関わった可能性のある兄らを殺害しただけですからまだ良いのですが、大泊瀬皇子はこれに飽き足らず、さらに従兄弟をも殺害してしまいます。
大泊瀬皇子は、従兄弟に当たる市辺押磐皇子(いちのべおしわのみこ)を狩猟に誘いました。市辺押磐皇子は履中天皇の皇子です。
狩猟の際、大泊瀬皇子は
「鹿があそこにいるぞ」
と言って市辺押磐皇子を先に行かせ、それを射殺してしまいます。市辺押磐皇子の配下の舎人(とねり)たちも、ここで皆殺しにされてしまいました。
市辺押磐皇子が殺され、その2人の息子である億計王(おけのみこ)と弘計王(をけのみこ)は命からがら播磨国に逃亡しました。
この兄弟の名前は一体何なのでしょう。「おけ」と「をけ」。ほとんど発音に違いがないと思うのですが、当時は全く別の音として認識されていたのでしょうね。
2人は播磨国の忍海部細目(おしぬべのほそめ)という住人の家に住み込み、馬飼い、牛飼いとして働くことになります。この2人は後々に再登場することになる重要人物なので、是非覚えておいてください。
