日本人の物語01186【南北朝末期】大嘗会への遅刻
「市町村索引」も頑張って更新しているのですが、現時点で全国1718市町村のうち492市町村が登場しています。戦国時代に入ればもっと一気に増えると思うのですが、とはいえ全市町村を登場させるのはなかなか難しいでしょうね。
京では義満・頼之の戦略が功を奏し、将軍の権威はみるみる高まっていましたが、それと反比例するように、後円融天皇の権威はみるみる下がっていました。やはり神器も上皇による指名もなしに即位した後光厳天皇の子ですから、北朝の武将たちも天皇をさほど重視していなかったのかもしれません。
それを示すエピソードが、天授元/永和元(1375)年下半期だけで3つもあります。
まず10月28日、延期されていた後円融天皇の大嘗会を開催するため、その準備として「御禊行幸」が行われました。これは後円融天皇が賀茂川で禊をする行事でしたが、三条実冬(さんじょうさねふゆ:1354~1411)の日記によると、天皇の行列は豪華ではあったものの、桟敷席の見物人の中に義満がおり、義満が側近に行列の中の誰が誰なのかをいちいち尋ねていたといいます。それを知った行列人はわざわざ義満の前で立ち止まってかしこまり、あたかも義満による閲兵式のような様子でした。天皇即位の儀式の一つであるにもかかわらず、天皇よりも義満の権威が高まってしまったのです。
さらに11月某日の記録では、大嘗会の資金集めのため、後円融天皇の綸旨を持った使者が賀茂社に行って税を催促したところ、神主の賀茂光久(かものみつひさ)は怒って氏人らを差し向け、使者を追い払ったとのことです。このとき、綸旨が地面に落ちて泥まみれになったといいますから、賀茂社の氏人ともあろう者が、天皇の綸旨を屁とも思っていなかったことが分かります。ちなみに神主が怒った理由は、幕府から既に大嘗会のための税を徴収されており、二重徴税されそうになったからとのことです。
最後のエピソードは、11月23日の大嘗会本番の話です。そもそも大嘗会は建徳2/応安4(1371)年12月19日に行われる予定だったのが、春日神木事件のせいで4年も延期され、後光厳上皇は息子の晴れ舞台を見ることができないまま崩御してしまいました。このこと自体が天皇の権威低下を十分に物語っています。
ところが大嘗会当日にはさらなる不祥事が起こります。後円融天皇は時間通りに到着していたのですが、担当奉行である裏松資康(うらまつすけやす:1348~1390)が遅刻したため、儀礼の順序を入れ替えざるを得なかったのです。
裏松資康はこの頃、妹の業子(なりこ:1351~1405)を将軍義満の正室として送り込んだばかりで、まさに日の出の勢いでした。将軍との結び付きを強固にしたあまり、天皇への敬意を欠いていたように思われます。
こうした積み重ねが、後円融天皇のストレスになっていったことは間違いないでしょう。後円融天皇と義満の関係はここから徐々に悪化していくのです。
