日本人の物語00150【古墳】26代継体天皇
継体天皇元(507)年1月6日。大伴金村は越前国に住んでいた男大迹王を呼びに行きますが、「私は天皇の器ではない」と断られてしまいます。再三説得することで、2月4日、ようやく男大迹王は求めに応じ、即位しました。継体天皇です。
しかし、継体天皇は即位した後、しばらく大和(奈良県)に入りませんでした。河内国樟葉宮(大阪府枚方市)に居座って政務をとったのです。
日本書紀はその理由を明らかにしていませんが、継体天皇の即位について反対勢力が強く、大和に入国できなかったのではないかと考えられます。継体天皇は即位後8年してようやく大和入りを果たすこととなります。
さて、継体天皇の時代、最も権勢を振るった豪族は大伴金村と考えられます。大伴金村なくして継体天皇の即位はなかったのですから、それはもう継体天皇といえども逆らいがたいほどの権力を持っていたことでしょう。
その大伴金村が、外交政策を左右していたことが分かるエピソードがあります。朝鮮半島における任那(みまな)4県割譲問題です。
当時の朝鮮半島には、高句麗(こうくり)、百済(くだら)、新羅(しらぎ)の3国が並び立っていました。その3国とは別に、任那と呼ばれる複数の国家の連合体がありました。まとめると、以下のとおりです。
・高句麗が北部を領有
・百済が南西部を領有
・新羅が南東部を領有
・任那(複数の国家の連合体)が南部に存在
このうち、任那は倭国の属国であり、倭国政府の出先機関である「任那日本府」が置かれていたといわれています。当時はまだ「日本」という国号はありませんでしたから、「任那日本府」は後世付けられた名称です。この任那日本府の存在が事実なのか虚偽なのか、大変な議論が行われていますが、これといって決め手となる証拠も定説もなく、判断しようがありません。
継体天皇6(512)年12月。百済から
「任那のうち4県を我が国の領土としたい」
との要求がありました。ずいぶんと直截な要求ですね。
穂積押山(ほづみのおしやま)という豪族が、
「この4県は任那日本府から遠く、事実上百済が支配しているようなものだ。この際、百済との親交を深めるためにも、与えてしまった方が良い」
と主張し、これに大伴金村が賛成し、勅許が出ました。任那4県が百済の領土となったのです。
しかし、これが朝鮮半島の混乱を呼んでしまうのです。
