日本人の物語00513【平安末期】壇ノ浦の戦い 遠矢
元暦2(1185)年3月24日。戦闘が開始されました。平家方の舟は約千艘、源氏方の舟は約3千艘。数の上では源氏方が有利ですが、海上での戦いは平家方の方が慣れています。
平家方は、舟の上から散々に矢を射かけ、源氏方はひどい苦戦を強いられます。
この壇ノ浦の戦いでは、どれだけ遠くまで矢を飛ばせるかの競争を表す「遠矢」というエピソードが有名です。当時、後で誰が誰を射殺したか功績を分かりやすくするため、矢には自らの名前を記しておくのが一般的で、その矢を相手の陣中深くまで飛ばし、相手方に
「その矢をこちらの陣中まで返せるか」
と挑戦することが流行していました。
源氏方の和田義盛は剛腕で有名で、矢を自分以上に遠くまで射られる者はいないだろうと自負していました。和田義盛は平家方の舟を目がけて矢を放ち、それが非常に遠くまで飛んだので、
「その矢をこちらに向けて返してみよ」
と言って、扇を招いて矢を射返すようにジェスチャーをしました。
平知盛が
「平家の威信にかけて、誰かこの矢を射返す者はいないか」
と周囲に尋ねたところ、名乗り出たのが新居親清(にいのちかきよ)でした。新居親清が放った矢は、和田義盛の位置よりも一段ほど後ろまで届き、和田義盛はひどく面目を失う結果となりました。
さらに新居親清は、義経の方に向けて次の矢を放ちます。
矢はこれまた相当に遠くまで飛び、義経の足元に刺さりました。新居親清は同様に、矢を射返すようにジェスチャーで義経に伝えます。
義経が配下の後藤実基に対し、
「誰か推薦する者はいるか」
と尋ねると、実基は
「浅利与一殿がよいでしょう」
と答え、浅利与一が呼ばれました。浅利与一は那須与一と並ぶ弓の名手です。
浅利与一が放った矢は遠く飛び、そのまま新居親清の身体を貫きました。新居親清は舟底へと落ちていき、「生死のほどは定かではない」と平家物語は記しています。
当時の戦闘は、こうした個々の名誉を賭けた競争も重視されていたのですね。
