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日本人の物語01646【室町/西国/六角征伐】犬田城の戦い

畠山の内紛はずいぶん長く続いてますね。

 同じ頃の両畠山の動向を見ていきましょう。
 京を離れた畠山義就は河内・大和で大暴れしていました。文明14(1482)年3月8日に畠山政長は細川政元を誘って義就討伐に出陣しましたが、細川軍の中に乗り気でない者が多く、政元軍は山崎で足踏みしてしまいます。
 この時点で政長には嫌な予感がしていたでしょうが、その予感は的中します。7月16日に政元が単独で義就と和睦してしまい、結局政長が単独で戦うことになったのです。
 12月。山城国内をすっかり押さえていた畠山政長に対し、義就はその奪回を図って草路城(京都府京田辺市)を攻撃してきました。政長方は、城代を務める遊佐兵庫助(ゆさひょうごのすけ)ら数十人が自害に追い込まれるほどの大敗を喫しました。
 義尚と富子は劣勢の政長を見限って義就に乗り換えることを検討しますが、義政が猛反対して実現せず、幕府は引き続き政長方に味方します。
 しかし義就の攻勢はやまず、文明15(1483)年4月には政長方の狛城(京都府木津川市)も落城し、木津川流域が義就の手に落ちました。政長は宇治橋を切り落として義就の北上を阻止し、これ以降は山城国の南部を義就が、北部を政長が、それぞれ支配し、宇治川を境に睨み合う状態となりました。
 政長と義就の所領争いは山城国だけでなく、河内でも起こっていました。政長は大阪府寝屋川市を中心とした「河内十七箇所」と呼ばれる荘園を管理していましたが、8月13日、そこに義就軍が攻め込んできたのです。政長自身は正覚寺(大阪市平野区)に籠もって戦闘を指揮しました。
 政長を支援するため、義政は8月15日に山城の寺社本所領の年貢の半分を軍事費として徴収する特権を政長に与えました(半済令)。さらに8月23日には畠山義就治罰の綸旨が出され、政長は義就討伐の予算と名目を得ました。
 しかし義就はそんな程度で討伐できる相手ではありません。十七箇所は淀川と深野池に挟まれた低湿地だったため、義就は淀川の堤防を破壊して十七箇所を水攻めにしました。政長方は犬田城(大阪府枚方市)を拠点に抵抗し、9月には政長の重臣・遊佐長直が越中の勢力を率いて犬田城の救援に向かいます。
 しかし9月17日に戦闘で遊佐軍は敗北し、遊佐長直は負傷して正覚寺へ逃亡しました。26日に犬田城は落城し、河内での戦いも義就の勝利に終わりました。
 もはや政長に任せていては、山城国内の年貢は入ってきません。義政は山城守護のなり手を探します。山名との対決に手一杯な赤松政則には既に断られており、文明15(1483)年1月には武田国信に打診するも再び断られ、最後にはなんと浦上則宗に頼むことになりました。結局断られたものの、守護代である浦上に打診するとはあまりの異常事態です。もはや幕府は、身分秩序が壊れることを許容し始めています。

源平合戦や南北朝動乱といった動乱期は別として、守護代が守護に昇格できる可能性は普通はありません。それを幕府が認めてしまうと、実力で守護になろうとする輩が出現してしまいます。

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