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日本人の物語00637【鎌倉前期】承久の乱 武士4名の処刑

 承久3(1221)年6月23日。勝利の報告が鎌倉にもたらされ、その日のうちに義時は戦後処理の方針について泰時・時房に指示を送りつけました。
 泰時・時房は戦闘終了後も京にとどまり、残党の処理に当たることとなりました。
 まずは承久3(1221)年7月2日、朝廷軍に与した御家人、
・後藤基清
・五条有範(ごじょうありのり:?~1221)
・佐々木広綱(ささきひろつな:?~1221)
・大江能範(おおえのよしのり:?~1221)
の4人が斬首となりました。吾妻鏡は彼らについて
「関東(幕府のこと)に被官し、頼朝公の御恩で荘園や五位の位階を得ておきながら、それを忘れて御恩を踏みにじるとは、弓馬の道に反する」
と糾弾していますが、これは些か酷な評価です。というのも、当時は幕府に仕えつつ、滝口の武士、北面の武士、西面の武士として同時に朝廷に仕えるということは認められていたのですから。
 7月11日には、佐々木広綱の子の勢多伽丸(せたかまる:1208~1221)が捕らえられました。13歳の勢多伽丸は仁和寺において修行中で、今回の挙兵には関わっていませんでしたが、父に連座して捕縛されたのです。
 勢多伽丸逮捕を受けて、仁和寺の門跡であった道助入道親王(どうじょにゅうどうしんのう:1196~1249)は必死に勢多伽丸の助命を泰時に嘆願して来ました。泰時は穏健で人道を旨とする人物ですから、この嘆願に感じ入って
「しばらく猶予し検討しよう」
と答えました。処刑を取りやめようと考えたのでしょう。
 しかしそこに邪魔が入ります。なんと、広綱の弟に当たる佐々木信綱(ささきのぶつな:1181~1242)が
「自分の武功を帳消しにしてでも勢多伽丸を処刑してほしい」
と強く主張してきたのです。つまり自分の甥を殺してほしいと言ってきたわけです。
 信綱にとってみれば、兄の系列が滅んでくれた方が自らの所領は増えるわけですから、いわば当然の主張なのですが、この時代の武士たちにとって親族の情愛がいかにどうでもよく、自らの利益がいかに重要と考えていたかが分かるエピソードです。
 泰時としては、宇治川の戦いで功を挙げた信綱を重視しないわけにいかず、やむなく勢多伽丸を処刑するほかありませんでした。

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