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日本人の物語01588【室町/西国/応仁の乱】小早川家の内紛

沼田と書いて「ぬまた」ではなく「ぬた」と読みます。

 文明7(1475)年4月に、西軍方の竹原小早川弘景(たけはらこばやかわひろかげ)が、東軍方の沼田小早川敬平(ぬたこばやかわたかひら:1452~1499)の高山城(広島県三原市)を陥落させるという事件がありました。そもそも小早川氏が竹原と沼田に分裂した経緯から見ていきましょう。
 小早川家の初代・遠平が安芸国沼田荘(広島県三原市)に根付いた経緯については既に述べました(01563回参照)。遠平の長男・土肥維平(どいこれひら:?~1213)は和田義盛の乱で処刑されたため、遠平は平賀義信(ひらがよしのぶ:1143~?)の五男・景平(かげひら:?~1244)を養子にもらいました。
 建永元(1206)年。景平は長男の茂平(しげひら:?~1264)に家督を継承させつつ、新たに開拓した土地を次男の季平(すえひら)に与えました。その後、茂平は承久の乱で戦功を挙げるなど活躍するようになりました。一方、季平の家系はその後、茂平たち本家を支える家臣となります。
 小早川氏が沼田・竹原の2家に分かれるのはこの後のことです。茂平の三男・雅平(まさひら)は高山城を本拠とし、沼田小早川氏の祖となりました。一方、四男・政景(まさかげ)は木村城(広島県竹原市)を本拠とし、竹原小早川氏の祖となりました。
 元弘の乱が起こると、
・沼田小早川朝平(ぬたこばやかわともひら)は鎌倉幕府方として六波羅探題の味方
・竹原小早川景宗(たけはらこばやかわかげむね)は尊氏の味方
となりました。鎌倉幕府が滅びると、建武政権は沼田小早川家の領地を没収しようとしましたが、竹原小早川家のとりなしによってかろうじて領地の一部を残すことができました。
 その後、本家である沼田小早川家は宣平(のぶひら)・貞平(さだひら:?~1375)・春平(はるひら:?~1402)の3代の間に芸予諸島に進出し、水軍を創設・発展させていきました。次の当主の則平(のりひら:1373~1433)は九州探題・渋川満頼を補佐して少弐・菊池との戦いに挑むなど活躍を見せました。その則平は、当初は嫡男の持平(もちひら)に家督を譲っておきながら、晩年になると家督を取り上げて末子の敬平に継がせました。
 一方、分家筋である竹原小早川氏の家督は、景宗に続いて祐景(すけかげ:?~1338)・重景(しげかげ)・実義(さねよし:?~1364)・義春(よしはる)・仲義(なかよし)と受け継がれ、弘景の時代となりました。
 沼田小早川家が持平・敬平兄弟で争っていることを知った6代将軍義教は、家督を沼田家から取り上げて竹原家に与えるよう指示しました。沼田家がこれに抵抗している間に義教は横死し、沼田は東軍方、竹原は西軍方となって応仁の乱を戦うようになりました。
 結局、小早川家の内紛も義教の気まぐれ的な介入のせいなのです。この小早川家の分裂はその後も尾を引くこととなります。

小早川家の歴代を全員登場させたらひどく読みづらくなってしまいました。

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