日本人の物語01575【室町/西国/応仁の乱】京極騒乱
斎藤妙椿は美濃の人なのに、尾張にも近江にも介入しています。それだけ実力があったのでしょうね。
近江情勢の話に戻ります。近江は
孫童子丸派: 京極政経・多賀高忠・六角政堯(東軍)
乙童子丸派: 京極政光・多賀清直・六角高頼(西軍)
に分裂したのでしたね。京極家・多賀家・六角家が全て分裂するというややこしい状況です。
文明3(1471)年1月23日。多賀高忠は北近江を奪回しようと攻め入りましたが、六角高頼に大敗しました。多賀高忠は幕府から援軍を得て再戦を挑み、六角高頼を甲賀へと敗走させ、北近江を占拠することに成功しました。敗北した六角高頼は、例によって隣国美濃の西軍武将・斎藤妙椿に援助を求めます。妙椿に頼るのは二度目です。
文明3(1471)年2月28日。斎藤妙椿・京極政光の軍は米原山(滋賀県米原市)で多賀高忠を破りました。多賀高忠らは如意ヶ嶽(京都市左京区)に逃れたものの、そこも追撃されて若狭まで敗走することとなりました。こうして南近江は六角高頼に、北近江は京極政光・多賀清直に占拠され、近江全体が西軍の手に落ちました。
敗北した東軍方に更なる悲劇が襲います。肝心の孫童子丸が7~8月頃に5歳で夭折してしまったのです。幕府はやむなく閏8月21日に後見役だった京極政経を当主に据え直し、出雲・隠岐・飛騨・北近江守護としました。そして西軍の六角高頼を牽制するため、京極家が最も欲しがっていた南近江守護職を、なんと六角政堯に与えてしまいました。これは西軍のみならず東軍の京極政経にとってもひどく残念だったでしょうが、西軍に勝利するために味方を増やす必要がありますから、仕方ありません。
幕府は近江の国人を総動員しようと、閏8月27日には朽木貞綱らに六角高頼討伐令を出しました。しかし高頼は怯みません。10月12日に高頼は、六角政堯を清水城(滋賀県高島市)に攻めて自害に追い込み、その勢いで11月には清水鼻(滋賀県高島市)の戦いで多賀高忠を破り、西軍の近江支配を盤石にしました。
しかし文明4(1472)年7月に情勢は逆転します。幕府の命を受けた多賀高忠が見事昨年の雪辱を果たし、六角高頼軍を南近江から追放したのです。
これまたしかし、10月になると六角高頼は斎藤妙椿から援軍をもらい(三度目)、またもや多賀高忠に勝利しました。多賀高忠は越前に逃亡していきました。
このように、近江における応仁の乱の中心人物は東軍方・多賀高忠と西軍方・六角高頼でした。この2人の対決はまさに一進一退で、なかなか決着がつきません。
この一連の戦いを、京極家が分裂していることに着目して「京極騒乱」と呼ぶのですが、実際には多賀家も六角家も分裂しているわけですから「六角騒乱」でも良い気がします。
この前、NHKの「知恵泉」に多賀高忠が登場しましたが(寛正の土一揆をテーマにした回)、アナウンサーさんは「多賀高忠(たがたかただ)」を言いにくそうに発音していました。
