日本人の物語01188【南北朝末期】山名家の家督問題
山名家の家督問題は複雑すぎる上に、いま説明しても効いてくるのはだいぶ後なんです。まあややこしいなと思ったら読み飛ばしてください。
天授2/永和2(1376)年には、後に幕府全体を巻き込んだ大合戦となる「明徳の乱」(1392年)の原因となる山名家の家督継承問題が持ち上がります。
きっかけは3月11日に山名家の当主・師義が死去したことでした。父・時氏とともに南北朝の動乱を駆け抜けた大物当主・師義は、動乱の中で次々と勝利を重ねることにより、莫大な所領を得ていました。
師義は本来ならば嫡男の義幸(よしゆき)に継がせたかったでしょうが、義幸はまだ年少な上病弱だったため、やむなく弟の時義(ときよし:1346~1389)に継がせる旨を決定してから死んでいきました。
師義には弟は複数いるのに、次男の義理(よしまさ:1337~?)や四男の氏清(うじきよ:1344~1392)を飛ばしてあえて五男の時義に家督を継がせたのは、最も権力基盤の弱い時義を指名することで、自分の子・義幸への中継ぎにしようという考えからでしょう。当然、義理・氏清にとっては面白くない話です。ちなみに三男の氏冬(うじふゆ:?~1370)は既に死去していましたが、その子の氏家(うじいえ)にとっても面白くない話で、義理・氏清・氏家はアンチ時義派となりました。
しかも時義は、ただ長兄・師義の思い通りに動くだけの傀儡ではありませんでした。家督継承を機に自らの思い通りに家を運営しようと考えた時義は、兄や甥との対立を深めていきました。
この頃、亡き師義の子として嫡男・義幸のほかに次男・氏之(うじゆき)と四男・満幸(みつゆき:?~1395)がいました。時義は敵対勢力となった兄や甥の切り崩し工作にかかり、甥の氏之を味方に引き込むこととし、実子・時熙(ときひろ:1367~1435)がいるにもかかわらず氏之をあえて養子とした上で次期惣領に指名しました。当然、満幸は不満を抱きます。
山名家の内紛が徐々に深刻化してきたのを、ほくそ笑んでみていたのが将軍義満と管領頼之です。義満・頼之としては、有力守護が力をつけ過ぎるのを防止しなければならず、山名家が揉めてくれるのはありがたい話です。
義満・頼之はこの内紛をさらに悪化させようと工作を開始しました。当主たる時義への嫌がらせのように、反対勢力である義理・氏清・氏家・満幸をどんどん登用し、侍所頭人などの幕府の役職を与えたのです。
時義はこうした義満・頼之の態度に不満を抱き、領国但馬に引き籠もって幕府に出仕しないようになりました。
こうして山名家は、最大の実力者たる師義を失った頃から内紛に明け暮れ、義満に付け入る隙を与えてしまったのです。この内紛が火を噴くのは16年後のことです。
