日本人の物語00484【平安末期】寿永二年十月宣旨
寿永2(1183)年2月の野木宮合戦(00475回参照)において、志田義広の反乱は早期に鎮圧されましたが、この反乱に加わった豪族・足利俊綱はまだ無傷でいました。
頼朝は足利俊綱を討つべく追討軍を送り出しましたが、その追討軍が到着する前の7月9日に、俊綱は家人であった桐生六郎(きりゅうろくろう:?~1183)に裏切られ、殺害されました。
桐生六郎は俊綱の首を差し出し、頼朝に対して褒美を要求しました。これはまさに、頼朝の父・義朝が家人の長田忠致・景致父子に殺害されたときと同じ構図です。頼朝は
「主を討つ者は用いない」
として、桐生六郎を処刑しました。父の無念の死を想起したのでしょう。
10月には、平家を裏切った平頼盛が鎌倉入りして、頼朝と会見しました。頼盛から
「京は深刻な食糧不足である」
と聞き、頼朝は大軍を率いて入京することを諦め、やむなく弟たちを大将として送り込むことにしたといいます。
とはいえ、これは鎌倉幕府の公式歴史書『吾妻鏡』の記述であって、実際はそうではないでしょう。おそらく頼朝としては、未だ関東に頼朝に従わない勢力が一定程度存在することや、平泉を拠点とする藤原秀衡の勢力が気になって、鎌倉を離れるわけにいかなかったというのが本音であろうと思われます。
9月20日。木曽義仲は留守居役に樋口兼光を指名し、平家を追って西下していきました。
頼朝としては、今こそ後白河法皇に取り入る好機です。使いを出して交渉した結果、10月14日に宣旨を受け、頼朝は東国の支配権を認められました。具体的には、東国における荘園・公領からの年貢は頼朝が取りまとめて朝廷へ納めることとなったのです。いわば頼朝は年貢納入の保証人となる代わりに、朝廷の名のもとに年貢の取り立てができる権限を与えられたわけです。
これを「寿永二年十月宣旨」と呼び、鎌倉幕府はここで成立したという説もあるほど重要な宣旨です。
しかし後白河法皇としても、頼朝と義仲のいずれを信頼してよいのか、未だ分かりません。義仲への配慮から、頼朝に認めた東国の支配権のうち、義仲の勢力圏である北陸道は除いてありました。このことに頼朝はひどく不満を抱きました。
一方義仲はといえば、後白河法皇が義仲を通さずに頼朝に直接宣旨を出したことから、ひどく不満を抱くようになります。
一説によれば、後白河法皇は、義仲と頼朝とに相互不信を抱かせ、両者がつぶし合うように仕組んだともいわれています。この時点でそこまでの考えがあったかどうかは分かりませんが、老獪な法皇のことですからあり得ないことではなさそうです。
