日本人の物語01174【南北朝末期】日本国王良懐
私は日本史ばかり得意で世界史がいまいちで、センターレベルの知識しかありません。今後勉強していきたいと思ってはいるのですが、なにぶん時間がとれません。
正平25/応安3(1370)年3月。明との外交に新たな展開がありました。九州の懐良親王が明に対して、自ら「日本国王」と称して朝貢を開始したのです。
日本全国を統治しているのは室町幕府なのに、九州を統治している一地方政権に過ぎない懐良親王が、なぜアジア最大の大国・明から国王に封じられたのでしょうか。その経緯を説明するには、2年ほど遡らなければなりません。
貧しい農民の出身である朱元璋(しゅげんしょう:1328~1398)は、紅巾の乱を契機に力をつけ、元を華北から追放して中国暦の至正28(1368)年1月に皇帝に即位し、大明国の建国を宣言しました。
朱元璋改め洪武帝は、即位後すぐに日本に使節を派遣しました。新国家の樹立に当たり、対外関係を重視していたのでしょう。また、倭寇の横行によって明と朝鮮半島の権益が脅かされていましたから、その取締りを徹底するよう申し入れたかったものと思われます。
ところが、第1回使節は五島列島のいずこかで海賊に殺害され、国書も破棄されてしまいました。この頃の九州周辺の海域はかくも治安が悪かったのですね。
正平24/応安2(1369)年2月。明からの2回目の使節がやって来ました。楊載(ようさい)を代表者とする7人の使節団です。国書の内容は、
「大明国に朝貢せよ。また、倭寇を放置するなら明軍を使わして日本国王を捕らえる」
との内容でした。この国書は無事に懐良親王に届いたものの、懐良親王は無礼であると怒り、使者7名中5名を斬り、楊載ら2名を拘禁しました。
3ヶ月後、釈放された楊載は明に逃げ戻り、事の次第を報告しました。洪武帝は怒り狂ったはずですが、正平25/応安3(1370)年3月、根気強く3度目の使節を送り込んできました。代表者は趙秩(ちょうひつ)で、国書の内容は2度目と同じく朝貢と倭寇取締りを命じるものでした。
懐良親王は、趙秩の苗字が蒙古襲来の際の「趙良弼」と同じであることから、元が再来したものと勘違いしたらしく、再び趙秩を斬るよう命じました。しかし趙秩はなかなかタフなネゴシエーターで、自分たち「明」は元を追い払って新たに打ち建てた国であること、他国は既に明に朝貢していることを根気強く説明し、
「私を殺せば禍が振りかかりますぞ」
とまで述べたので、懐良は遂に明への朝貢を決断しました。
懐良親王は明の公式文書で「日本国王 良懐(りょうかい)」と呼ばれています。なぜ「懐良」が「良懐」にひっくり返ったのかは不明ですが、いずれにせよ、九州の地方政権が日本の代表的な政権であるかのように自称して明と国交を結んでしまったことで、室町幕府は軌道修正に苦慮することとなります。
