日本人の物語01593【室町/西国/応仁の乱】島津内紛 当主忠昌
島津家は分家が多すぎて覚えきれません。
文明8(1476)年2月から9(1477)年4月にかけて、薩摩国で島津家の内乱がありました。その流れを追ってみましょう。
薩摩国が島津久豊によって掌握されたこと、その子の忠国が大覚寺義昭を討ったことについては既に説明しました(01380回参照)。その忠国は独裁的だったため家臣らの支持を失い、長禄3(1459)年には忠国の子・島津立久(しまづたつひさ:1432~1474)が家臣らと組んで父を加世田(かせだ:鹿児島県南さつま市)に追放してしまいました。
さて、立久がその治世において特に気を配ったのは、忠国の弟たち、つまり叔父たちの処遇でした。立久は叔父たちに領土を配分して結束を強めます。その中で次のとおり、島津の分家が多数生まれました。(ちなみに宗家は奥州家と称します。)
〇叔父・用久(もちひさ:1411~1459)を祖とし、山門院(鹿児島県出水市)を拠点とする薩州家(用久が薩摩守を称していたことからこう呼ばれる)
〇叔父・季久(すえひさ:1413~1477)を祖とし、帖佐(ちょうさ:鹿児島県姶良市)を拠点とする豊州家(季久が豊後守を称していたことからこう呼ばれる)
〇叔父・有久(ありひさ)を祖とし、梅北(宮崎県都城市)を拠点とする羽州家(有久が出羽守を称していたことからこう呼ばれる)
〇叔父・豊久(とよひさ:?~1484)を祖とし、三俣下城(宮崎県都城市)を拠点とする伯州家(豊久が伯耆守を称していたことからこう呼ばれる)
〇異母兄・友久(ともひさ)を祖とし、田布施(鹿児島県南さつま市)を拠点とする相州家(友久が相模守を称していたことからこう呼ばれる)
応仁の乱が始まると、島津家当主の立久は東軍方に属しましたが、叔父の豊州家季久は西軍に属しました。といっても、叔父・甥の間で実際に戦いが行われていた記録はありません。どうもどちらが勝利しても良いように、示し合わせて家を割ったものと考えられます。
さて、立久は叔父・薩州家用久の娘を正室に迎えていましたが、男子が産まれなかったため、用久の息子(つまり自らの従弟)である薩州家国久(くにひさ:1442~1498)を養子とし、家督を継がせることとしていました。
ところがその後、側室との間に男子・忠昌(ただまさ:1463~1508)が産まれてしまいます。こんなとき、約束を反故にしてでも実子に家督を継がせたいと考えるのが自然のなりゆきでしょうが、立久は進んでか涙を呑んでかは分かりませんが、今は亡き叔父・用久との約束を履行するため実子忠昌を龍雲寺(鹿児島県いちき串木野市)に入れてしまいました。
その後、立久は文明6(1474)年4月に死去しました。当然、従弟の薩州家国久が家督を相続するべきところでしたが、なんと国久自身が当主の座を辞退し、龍雲寺にいる忠昌を呼び戻して当主に据えました。平和的に譲り合ったというのは嘘っぽい気もしますね。
ここまでは平和的に進んでいました。内紛が起こるのはここからです。
あまりに分かりにくいので、島津家は今後名前の前に家名をつけて呼称することとします。
