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日本人の物語01667【室町/西国/六角征伐】義政死す

長らく将軍(又は大御所)の座にあった義政が遂に死去します。長くいた割には、権力を行使できたかというと微妙な感じですが。

 幕府としては後継将軍を清晃にするか義材にするか、決めなければなりませんが、義政は高齢のため目が衰えているにもかかわらず、
「自分が再び天下の政道を執行する」
と述べ、政権担当に意欲を示しました。とはいえ、さすがに無理だろうと考えた富子や政元は独自に後継将軍の擁立を始めます。
 ここで長らく上洛を渋っていた義視・義材父子が遂に美濃から上洛してきました。父子は長享3(1489)年4月8日に大津に入り、11日に入洛し、19日には小川御所に入りました(もっとも短期間ですぐに出ていったようですが)。
 小川御所というと義尚が政権を執っていた場所であり、ここに入ることは後継者であることを意味します。小川御所を管理していたのは富子なので、富子が父子を美濃から招致したものと考えられます。縁もゆかりもない清晃よりは、妹が産んだ義材の方が言うことを聞きそうだと思ったのでしょう。
 一方、細川政元は堀越公方政知の子・清晃を推していました。24歳の義材よりも9歳の清晃の方が傀儡として使いやすいとの思いもあったかもしれません。
 しかし、義政は自ら政権を運営する意欲を示し、誰の将軍就任をも認めない上に、義視にもなかなか会おうともしません。
 幕府は鈎の陣を早期に引き払って将軍交代の準備にかからなければなりません。7月には荘園の返還を条件に六角高頼を赦免し、六角との戦いをとりあえず棚上げしました。
 富子は義政の説得を続けていましたが、8月に義政が脳卒中の発作で再び倒れ、右半身麻痺という不幸に見舞われます。ここに来てようやく義政は自ら政務を執ることを諦めたのか、改元後の延徳元(1489)年10月21日にようやく義視と面会しました。
 ここで義政が義材の将軍就任を認めたかどうかは分かりませんが、いずれにせよ義政は延徳2(1490)年1月7日に死去し、これで次期将軍擁立に反対する者はいなくなりました。
 義政というと、
・政務に関心を示さず芸術にばかり没頭していた
・その態度が応仁の乱を泥沼化させ、幕府の衰退を招いた
とのイメージが定着しています。しかし実際には見てきたとおり、義政は(一時期例外もあったものの)いつも自ら政務を執りたがっていました。富子との夫婦喧嘩で出奔したエピソードが有名過ぎて、あたかも在任中ずっと政治に無関心だったように誤解されているのです。
 とはいえ、さすがに義政に高い政治手腕があったとまでは評価できません。守護たちの抗争を止められなかった無能な将軍という評価は残念ながら揺るがないでしょう。

大河ドラマ『花の乱』では、病に冒された義政が遂に富子と和解する場面が描かれていました。実際、この夫婦はたびたび喧嘩しつつも仲の良い夫婦だったように思われます。

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