日本人の物語01687【戦国/東国/長享の乱】道灌の気質
西日暮里駅前に「道灌山」があるなど、太田道灌の名前自体はそこそこ知られていますが、どの時代の人物なのか、何をしたのかはあまり知られていない気がします。
道灌は目上の人に対してもズケズケと物を言う性格で、「江戸っ子気質の元祖」などと評されることもある人物です。さすがに「江戸っ子」という概念ができたのは江戸幕府が開府した後でしょうから、道灌を江戸っ子と呼ぶのはちょっとおかしな表現ではありますが、人物評としてはぴったりだと思います。
道灌が残した書状『太田道灌状』を見ると、こんな過激な言葉があります。
「国には三つの不詳がある。上に立つ者が賢人の存在を知らないのが一不詳。知っていながら使わないことが二不詳。使っても仕事をちゃんと任せないことが三不詳である。こういったことを顕定様に分かっていただこうと思う」
この「三不詳」というのは春秋時代の斉の政治家・晏嬰(あんえい)の言葉で、「不詳」とはここでは「君主の不徳」といった意味でしょう。
別のチャプターでは自分の恩賞が足りないと不満をタラタラ述べる場面もあり、道灌の自己評価がいかに高かったが分かります。確かに道灌は評価に値する武将なのですが、上司にこれを直接述べてしまうのはいかがなものかと思われます。
上杉家中には、自己評価が高く上司に直接不満を述べる人物はもう一人いました。それが長尾景春です。
前述のとおり、景春は長尾家当主と山内家家宰の座を叔父の忠景に奪われたことを恨み、遂に謀反を起こしました。扇谷上杉定正からみると道灌は景春と重なって見えたでしょうし、「謀反を起こす可能性を懸念した」という定正の弁明にも一定の説得力はあるかもしれません。
道灌殺害を受けて、嫡子の太田資康(おおたすけやす:1476~1513)は甲斐国に逃れました。扇谷家家臣や同盟者の中にも道灌殺害に憤る者は多く、特に千葉自胤や三浦道含(みうらどうがん)・道寸(どうすん:?~1516)父子は定正に仕えるのをやめ、山内上杉家に属するようになりました。道含は扇谷上杉定正の弟であるにもかかわらず、兄に見切りをつけてしまったのです。
道灌殺害後、庶流の太田六郎右衛門(おおたろくろうえもん)が扇谷家家宰に就任しましたが、さほどの影響力を持つことはありませんでした。
なお、道灌に招かれて文明17(1485)年10月から江戸城に滞在していた歌人・万里集九は、道灌の死に大いにショックを受けました。定正の引き留めを振り切って美濃に帰国した万里集九は、漢詩の中で定正の軍を「逆兵」と呼んでおり、道灌を殺した定正への怒りの強さが読み取れます。
長い間執筆しておらず、貯金(かつて書いた原稿)を切り崩しながらやっています。そろそろ執筆せねば。
