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日本人の物語00954【南北朝初期】塩冶判官讒死 忠臣蔵

これでやっと塩冶高貞の話は終わりです。歌舞伎好きな人にとっては「塩冶判官」という人名は聞き慣れたものでしょうが、仮名手本忠臣蔵における塩冶判官は、太平記におけるそれとも、史実におけるそれとも大きく異なっています。まあ史実の塩冶高貞がどんな人だったかは、史料が少なくて何とも分からないですね。

 塩冶高貞の首は師直の元へと送られました。この件を知った人々は、
「あれほど忠義心のあった塩冶判官が、たった一度の讒言によって命を失うとは、何と哀れなことか」
と口々に噂しました。
 さて、塩冶高貞の死について『太平記』の記述に従って長々と述べてきましたが、これは高師直を悪者に仕立て上げるために後付けで創作されたエピソードと考えられています。塩冶高貞という足利家の有力家臣が何らかの原因で粛清されたのは史実ですが、その真の原因は他にあると考えられ、最近の研究では、
「塩冶高貞は南朝方に寝返ろうとしていたのではないか」
との説も有力視されているようです。
 その後、塩冶高貞は歌舞伎の世界でひどく有名になりました。江戸時代に起きた赤穂事件が庶民たちの間で大いに人気を呼び、劇作家・竹田出雲(たけだいずも:?~1747)がこの事件をモデルとして『仮名手本忠臣蔵』という脚本を書いたのです。
 赤穂事件とは言うまでもなく、赤穂藩主・浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)が旗本・吉良上野介(きらこうずけのすけ)に斬りつけた罪で切腹させられ、浅野家臣・大石内蔵助(おおいしくらのすけ)ら47人(実際には46人)の浪士が吉良邸を襲撃し、吉良を討ち取ったという事件です。
 これをそのまま実名で上演すると、幕政批判と捉えられて幕府の咎めを受けるおそれがあったことから、竹田出雲はこの事件の舞台を南北朝時代に置き換えて脚本化しました。つまり、
「足利家家臣・塩冶判官が足利家執事・高師直に陥れられて切腹させられ、塩冶の家臣・大星由良助(おおぼしゆらのすけ)ら47人が師直の屋敷を襲撃しこれを討ち取った」
という事件に仕立てたのです。ちなみに大星という人物は塩冶家の家臣に実在しません。
 仇討ちというネタならば、日本の歴史上、他にもいろいろあるはずなのに、なぜ塩冶判官と高師直を使ったのか。それは、吉良上野介が「高家(こうけ)」といって、江戸幕府における儀式や典礼を司る役職に就いていたためです。
 仇役の高師直が「高」という苗字であることから、この歌舞伎を見る観客たちは自然と「高家」である吉良上野介を想起するわけです。特段の落ち度もないのに、庶民の怨嗟を一身に受けた吉良上野介もかわいそうですが、その吉良の役を仮託されて数百年に渡って悪役となり続けている高師直もまた、不憫なものですね。
 『太平記』には、高師直が天皇について「木か金で作って置いておけばよい」と放言したとのエピソードもあり、既存の価値観にとらわれない婆娑羅な武将と扱われています。本当にそのような乱暴者だったか分かりませんが、『太平記』で植え付けられたイメージは今もなお払拭できていないようです。

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