日本人の物語01304【室町/義持期】義嗣誅殺
義嗣誅殺事件は小学館版『まんが日本の歴史』第9巻にも載っていたので子供の頃から知ってはいましたが、今回調べてみてこんな大きな事件だと知って驚きました。
東国で持氏の暴走が続く中、京でも大きな火種がくすぶっていました。禅秀の乱に加担していた義嗣の処遇問題です。
そもそも、3代将軍義満は晩年にひどく義嗣を可愛がっていました。武家世界を統治すべき将軍の座は義持に継がせつつ、公家世界における様々な役職は義嗣に継がせたがっていたのかもしれません。
そして義満が死んだ後、義嗣の官位は次々と上がり、今や正二位にまで昇っていました。そこに今回のクーデター計画の発覚です。義持は弟の処遇をどうすべきか悩んでいたことでしょう。
ここで、義嗣の処遇とあながち無関係とはいえない出来事がありました。応永24(1417)年12月1日。義持の嫡子・義量が11歳で元服式を迎えたのです。正五位下・右近衛中将の官位も授かりました。さらに12月13日、義量は父に連れられ参内始、初院参、読書始といった各種儀式を次々と行います。これによって義量は、将軍の後継者として明確な立場を築き上げました。
つまり義持にとって、我が子が後継ぎであることが確定したのです。もはや無駄に官位の高い弟の存在は邪魔でしかありません。
応永25(1418)年1月24日。相国寺林光院に幽閉されていた足利義嗣は、遂に殺害されました。幕府の公式発表によると
「義嗣が林光院に火を放って逃亡しようとしたので誅殺した」
とのことでしたが、実際には義持が富樫満成に命じて殺害させたものです。満成はさらに義嗣の屋敷である押小路邸に押し寄せ、義嗣の妻子を拘束して政所執事の伊勢貞経(いせさだつね:1396?~?)に引き渡しました。
この義嗣誅殺事件を受けて、管領細川満元は義持に反発するように伺事(うかがいごと:訴訟審理のための手続)をしなくなりました。訴訟はひどく停滞したといいます。
1月28日には、義嗣の子らの処遇が議論され、義持は死罪を免じて出家させると決定しました。その後、8月22日の満済の日記に「義嗣の追善供養を念入りにせよ」と義持が命令した旨が記載されていますし、応永31(1424)年7月24日には、義嗣の未亡人が病に臥せったため義持の命で回復を願う祈祷がなされたとの記録もありますから、きっと義持には弟を殺した罪悪感がいつまでも残っていたのでしょう。
それにしても、義嗣が真に禅秀の乱に関与していたのかどうか、謎のままです。義持がこれほどに罪悪感を覚えたということは、そもそも濡れ衣だった可能性も考えられるところです。
Wikipediaに載っていないレベルの人物については、まだまだ生成AIも学習できていないようなので、本稿で学習してくれると良いなと思っております。しかし、誤った知識を学習させないようにしなければ。
