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日本人の物語01363【室町/義教期】周防と駿河の内紛

周防は山口県東部。駿河は静岡県中央部です。念のため。

 将軍就任から約3年が経過し、調子の乗ってきた義教は有力守護の家督継承に次々と介入し始めます。かつて義満はまさにそのやり方で山名家の内紛を起こし、飛ぶ鳥を落とす勢いだった山名家の勢力を減退させることに成功したわけですが、義教もその真似をしようとしたのでしょう。
 まず周防守護・大内家では、前述のとおり当主の盛見が死去し、その甥に当たる持世・持盛兄弟が家督をめぐって争っていました。持盛が継ぐことで話がまとまりつつあったのに、将軍義教が持世を支持したため対立が起こったのでしたね。
 永享4(1432)年2月10日。持世・持盛兄弟の対立が武力衝突に発展し、持盛が持世に夜襲を仕掛けました。持世は命からがら数十の手勢とともに逃亡しました。
 しかし義教の支援を受けた持世は反撃に転じます。3月14日、石見に逃亡していた持世は兵を引き連れて周防に入国し、迎撃に失敗した持盛は逆に国から没落していきました。
 翌月には駿河守護・今川家の後継問題が起こりました。3月29日に今川範政が老齢のため隠居を決めたのですが、範政はそれまで嫡子として育ててきた範忠(のりただ:1408~1461)に「お前は当主の器ではない」と言い放って廃嫡し、後継に末子・千代秋丸(ちよあきまる:後の小鹿範頼)を指名しました。高齢になってから産まれた末子はひとしお可愛いのでしょう。
 しかし、この決定は今川家で大きな波紋を呼びましたし、将軍義教からも猛反対に遭いました。というのも千代秋丸の母は、扇谷上杉氏定の娘だったのです。氏定というと上杉禅秀の乱で持氏方に味方して戦死した人物ですから、この婚姻を認めると今川と持氏の結び付きが強化され、幕府に対抗し得るほどの勢力が新たに出現するおそれがあります。
 この駿河への介入の一事を取ってみても、やはり義教は関東(つまり持氏)を警戒しているようです。その証拠に、9月10日に義教は持氏を牽制するため、富士遊覧と称して駿河に出向きました。かつて義満が行ったのと同じ、遊覧に見せかけた鎌倉府への圧力です。
 この富士遊覧については、かねてより幕府が鎌倉府に日程を示していたのですが、持氏を刺激することを恐れた関東管領憲実は延期を願い出ていました。義教はその延期要請を受け入れず強行したのです。
 しかし義教はどうも戦線を拡大し過ぎたように思われます。守護の家督相続への介入は、あまり同時並行で多数行ってしまうと敵を増やすばかりです。
 10月22日には義教の危うい政権運営に恐れをなしたのか、斯波義淳が管領の座を細川持之に譲り渡しました。翌10月23日には、大友・少弐征伐に乗り気な義教に対して満済が
「今は時期が悪いので見合わせるべきです」
と進言しています。大内や今川と揉めている中、これ以上戦線を拡大するとまずいということでしょう。

「富士遊覧は持氏を牽制するため」と説明しておいてこんなことを言うのも何ですが、近畿を出たことのない人間にとって富士山は人生で一度は見ておきたいものでしょうね。純粋に「富士山を見てみたい」という気持ちもある程度はあったかもしれません。

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