日本人の物語01608【室町/東国/長尾景春の乱】今川義忠横死
今川義忠というのは、あの今川義元の祖父に当たります。
長尾景春が反逆を企てていることを知った道灌は焦りましたが、別の仕事が舞い込んできたため武蔵をしばらく離れなければならなくなりました。その別の仕事とは、駿河守護・今川義忠の後継問題に関することでした。ここで今川義忠の動向についてまとめておきましょう。
幕府が今川義忠にしきりに関東への出陣を要請しているのに、義忠はちっとも動こうとせず、遠江国を斯波家から奪還することにばかり目を奪われていました(01529回参照)。
その義忠は応仁2/享徳17(1468)年に上洛しました。応仁の乱の最中だったので、さっそく山名宗全が義忠を西軍に引き込もうと使者を派遣しましたが、義忠は
「私は将軍のために上洛したのだから、東軍も西軍もない。将軍のいるところが自分の行くところだ」
と大見得を切ったといいます。実際には、遠江守護の斯波義廉が西軍に属しており、その義廉を滅ぼして遠江の支配権を得たいから東軍に身を置いたものと考えられます。
幕府に出仕した甲斐があって、文明5/享徳22(1473)年、幕府は義忠に遠江国内の代官職を与えました。このまま上手くいけば遠江守護職にありつけるかもしれません。
その後駿河に戻った義忠は、翌文明6/享徳23(1474)年に遠江へと進軍しました。西幕府方の遠江守護・斯波義廉に味方する勢力を倒そうとの意図です。これ以降、義忠は何度か遠江に侵攻しています。
ところが、文明7/享徳24(1475)年に、幕府は斯波義廉の家宰である甲斐敏光を寝返らせることに成功し、敏光を遠江守護代に任命しました(01589回参照)。その敏光は遠江には下向せず、現地の勝田氏(かつまたし)・横地氏(よこちし)・狩野氏(かのうし)を手なづけて遠江を支配していました。義忠はそれを知らずに横地氏と戦ってしまいます。つまり東軍同士の戦いになってしまったのです。
文明8/享徳25(1476)年2月19日。義忠は狩野氏の拠点・見附城(みつけじょう:静岡県磐田市)を陥落させましたが、その帰路、塩買坂(静岡県菊川市)で横地氏の残党に襲われ戦死しました。勝利した後の凱旋帰国中だったため、気が緩んでいたのでしょう。
義忠は正室である伊勢氏出身の北川殿(きたがわどの:?~1529)との間に龍王丸(たつおうまる:後の今川氏親:1473~1526)をもうけていましたが、まだ4歳と幼かったため、従兄弟の小鹿範満(おしかのりみつ:?~1487)が家督継承を主張しました。こうして今川家の家督争いが始まりました。
道灌は、この内紛の調停を任される羽目に陥ったのです。
道灌にとって、武蔵が大変まずい状況にある中で駿河に出張しなければならないというのは嫌だったでしょうね。
