見出し画像

日本人の物語01150【南北朝後期】苦林野の戦い 決着

大雪が降るぞ降るぞと言われながら、全然降りません。まあ降らないに越したことはないのですがね。

 岡本富高が味方のふりをして岩松直国に近づいていくと、それを不審に思った岩松家臣・金井新左衛門(かないしんざえもん)が行く手を立ち塞ぎました。そのまま岡本・金井両者は刺し違えて死にました。岡本は主君・芳賀高貞を討たせまいとし、金井もまた主君・岩松直国を討たせまいとして戦死したのです。太平記はこの両方を忠義の者と絶賛しています。
 さて、数に劣る芳賀軍は十分に善戦したものの、戦は結局基氏軍の勝利に終わりました。生け捕られた芳賀八郎はまだ幼かったため、無事に返還されました。人々は基氏の情け深さを称えたといいます。
 芳賀軍800騎のうち、討たれずに残ったのは300騎程度でした。彼らは命からがら宇都宮へと戻りましたが、その道中もまた、落ち武者狩りのためひどく危険なものだったそうです。
 太平記には書かれていませんが、この基氏軍と芳賀軍の戦いは2度あったそうです。2度目は正平18/貞治2(1363)年8月26日の岩殿山の戦いです。
 岩殿山(埼玉県東松山市)とは、古くは比企能員(00591回参照)が本拠としていた場所です。今は「足利基氏の塁跡」の看板が建てられています。
 この戦いでも基氏方が勝利し、芳賀軍は宇都宮に逃げ戻りました。
 芳賀との戦が終わると、基氏は80万騎の大軍で宇都宮氏綱を討つべく出陣しました。しかし宇都宮は
「高名の今回の振る舞いは、私が同意したものではありません。高名は既に逃げて行きましたから、これ以上軍勢を向ける必要もないでしょう」
と弁解してきました。基氏もこれに同意し、これ以上の戦乱は避けられることとなりました。
 基氏は宇都宮氏綱から上野守護職を取り上げ、これを上杉憲顕に授けました。こうして憲顕は、関東執事に加えて越後・上野守護を兼任することとなりました。
 なお、室町幕府で引付衆を縮小したことから執事の権限が拡大し、「執事」を「管領」と呼び始めるようになったことは既に述べました。それに合わせて、関東執事もまたその権限を拡大していき、やがて「関東管領」と呼ばれるようになります。初めて「関東管領」と書状で明記されているのは、この上杉憲顕からです。
 これ以降、関東管領は代々上杉家が就任する慣例となりました。戦国時代にはあの有名な上杉謙信が関東管領に着任することとなるのです。
 大きな犠牲を払いながら、どうにか自分の思い通りの人事を実現した基氏でしたが、基氏に残された期間はあまりに短いものでした。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集