日本人の物語01471【室町/西国/大乱前夜】朝令暮改
畠山家の家督問題は複雑なので、ちょっとしつこいくらいに要点をまとめ直しております。くどいかもしれませんが。
享徳3(1454)年11月2日。義政は命令に従わない山名宗全の討伐を決め、御教書を発出しました。細川成之(ほそかわしげゆき:1434~1511)を総大将とした山名討伐軍が編成されます。
しかしこの討伐は実現しませんでした。11月3日に管領・細川勝元が義政を説得し、宗全討伐令は撤回され、領国・但馬での謹慎処分で済まされることとなりました。宗全は命こそ助かりましたが、当面は上洛も出仕も許されません。
勝元からみて宗全は、「味方ではあるがちょっとやり過ぎてしまう困った義父」といったところでしょうか。勝元も宗全も、赤松や畠山の勢力を削ぎたいという気持ちは共通しているのですが、どうも宗全の空気の読めなさ、手段を選ばず行動する様子は異常なレベルと思われます。
宗全が失脚したせいで、畠山家の家督問題も元に戻ってしまいました。元々「宗全にけしかけられての放火」という犯罪によって家督を奪った畠山弥三郎は、宗全謹慎と同時に失脚し、京からの逐電を余儀なくされました。
政敵が自滅してくれたことを喜んだ畠山持国は、もちろん河内から義就を呼び戻します。12月13日に義就は上洛し、将軍義政に謁見して改めて家督を継承しました。
義政の畠山家への関わりをまとめると、以下のとおりです。
・文安5(1448)年11月: 義就に謁見を許し「義夏」の名を与える
・享徳3(1454)年8月: 弥三郎に謁見を許し家督継承を認める
・享徳3(1454)年12月: 義就に謁見を許し家督継承を認める
いやはや、弥三郎と義就の浮沈のスピードは実にすさまじいものです。義政の朝令暮改がかくも家督問題の混乱を生んだわけですが、義政は一体何がしたかったのでしょう。
義満が故意に態度を翻して山名家の家督問題を混乱に陥れたとき(01188回参照)のように、義政はわざと畠山家を混乱させたのでしょうか。いやいや、そうではないでしょう。義政は自ら先制的に行動を起こしているのではなく、その都度戦いに勝利した側を支持しており、全てが後手なのです。
とはいえ当時18歳の義政を責めることはできないかもしれません。将軍を支えるべき幕閣は、
・畠山持国と細川勝元が権力拮抗状態
・今参局や伊勢貞親といった側近が自分の利害関係に基づき次々と意見具申してくる
・山名宗全という極端に個性の強い困った御意見番がいる
といった状況でした。彼らの中で勝利した者の意見がそのまま義政の政策決定となってしまったわけで、必ずしも義政自身が優柔不断だったとは評価できないでしょう。
応仁の乱に早く進みたいですねえ。しかしその前に関東の「享徳の乱」を紹介しなければならないので、まだまだかかります。
