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日本人の物語01217【南北朝最末期】南朝4(99)代後亀山天皇

やっと南朝最後の天皇が即位するところまで書いてきました。南北朝時代も間もなく終わりですね。

 弘和3/永徳3(1383)年3月27日。懐良親王は筑後国矢部(福岡県八女市)にて死去したと伝わっていますが、これは江戸時代に創作された記録らしく、実際にはもっと早く亡くなっていたと考えられます。そもそも南朝勢はこの時点では宇土城(熊本県宇土市)に滞在しており、矢部に逃亡するのはもっと後のことです。
 いずれにせよ、五条頼元・菊池武光・懐良親王が死去し、九州の南朝勢力はその中心人物をほぼ全て失いました。
 義満は向かうところ敵なしです。6月26日には准三宮(准后)の宣下を受け、皇后と同格に並びました。
 9月30日には、斯波派が恐れていた細川頼之の復権が近いと思われる出来事がありました。景徳寺で行われた夢窓疎石の三十三回忌法要のため、頼之が上洛したのです。政敵・春屋妙葩も導師として招かれていたこの法要に頼之が参加したことは、斯波派がもはや義満を制御できる力を失っていたことの表れです。
 翌弘和4/永徳4(1384)年2月20日には、同じ景徳寺で頼之の父・頼春の三十三回忌が営まれました。やはり春屋妙葩を導師として、義満も出席しました。頼之が無事に京に滞在できるのは義満に逆らえる者がいないからです。
 さて、弘和3/永徳3(1383)年の冬には、南朝方で天皇の交代がありました。長慶天皇が退位し、弟の後亀山天皇が即位したのです。この譲位がいつ行われたのか正確な日付も不明で、譲位の理由も分かっていません。
 考えられることとしては、長慶天皇は前述のとおり北朝との和平交渉を行った形跡がないことから強硬派とみられ、後亀山天皇はこの後南北朝合一に向けて交渉を行うことから和平派とみられます。つまり、南朝内部で強硬派と和平派の対立が起こり、和平派が勝利して長慶天皇を廃する動きがあったのではないでしょうか。
 その証拠に、譲位から2年後の元中2/至徳2(1385)年9月10日付けで、長慶上皇が紀伊国丹生明神(にうみょうじん:和歌山県かつらぎ町)に納めた自筆の願文が現存しているのですが、そこには
「このたび雌雄を決することにつきまして、私の思いが叶えば、念入りに祈願成就の御礼をいたします」
と書かれており、長慶上皇が誰かと激しく争っている様子がみられるのです。この相手は北朝なのか、後亀山天皇なのか説が分かれています。
 この譲位の後、長慶上皇の所在は不明で、どこで没したかすら分かっていません。

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