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日本人の物語01521【室町/東国/享徳の乱】千葉家分裂

今回出てくる「石浜」の場所が複数あって、現在のどこに当たるのか特定できないようです。

 緒戦はこのとおり東常縁の勝利に終わりましたが、馬加方の反撃もすさまじいものでした。
 康正2/享徳5(1456)年1月19日、千葉実胤・自胤兄弟が拠点とする市川城を、成氏の派遣した簗田出羽守(やなだでわのかみ)の軍が攻め落としました。兄弟は散り散りとなって敗走し
・実胤は石浜(東京都台東区又は荒川区)に
・自胤は赤塚(東京都板橋区)に
それぞれ逃れることとなりました。そして東常縁もまた、本拠たる東庄に程近い下総国匝瑳郡(千葉県匝瑳市)へと逃れました。せっかく陥落させた馬加城も、敵に奪回されてしまいます。
 東常縁は反撃に転じます。2月7日に老尾神社(おいおじんじゃ:千葉県匝瑳市)で戦勝祈願をした後、6月12日には馬加城を再度陥落させました。このとき敵の大将である馬加康胤を取り逃がしたものの、康胤の子・胤持を討ち取る大戦果を上げました。康胤は上総八幡(千葉県市原市)に敗走していきました。
 そして因縁の対決が遂に終結します。11月1日、東常縁は上総八幡の戦いで馬加康胤を討ち取り、11月24日には馬加家執事・原胤房を追放したのです。これにて千葉本家にクーデターを起こした馬加氏は、僅か1年でその主要人物をほぼ失いました。
 ところが馬加家はまだ粘りを見せます。かねてより馬加家は千葉家の家督を継承したと勝手に宣言していましたが、今度は胤持の弟の輔胤(すけたね:1421~1492)が当主であると宣言したのです。
 馬加輔胤は本拠たる馬加城を追われたものの、新たな拠点として臼井城(千葉県佐倉市)を築き、これ以降は輔胤の子孫たちが下総千葉氏の嫡流となっていきました。下総千葉氏はこれ以降も、成氏を支援して上杉方と戦い続けることとなります。
 一方、武蔵国に逃れた千葉実胤・自胤兄弟は「武蔵千葉氏」として一定の勢力を保ち、その後も上杉方として活躍したものの、戦国時代に入ると徐々に埋没していきました。結局、長いスパンで見ると千葉家の内紛は馬加方の勝利に終わったといえます。
 以上、享徳の乱の代理戦争としての千葉家の内紛について見てきました。30年に渡って続いた享徳の乱や11年に渡って続いた応仁の乱は、このような御家騒動をたびたび惹起させており、多くの守護家を混乱に陥れて来ました。この千葉家の悲劇もそうした数あるエピソードの一つに過ぎないのです。

「千葉県匝瑳市」は難読地名として有名ですね。「そうさし」と読みます。「ハリキリ戦隊ソーサマン」というご当地ヒーローが話題になっています。

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