日本人の物語01259【室町/義満期】応永の乱 満兼始末
鎌倉公方一人ごとに約4千円の伝記本を購入して読んでおり、この連載には既に数十万円かかっております……。
伊達政宗の乱が起こったせいで鎌倉公方満兼を処分するどころではなくなったのですが、それはそれとして、満兼は乱鎮圧と平行して必死に謝罪と嘆願を行っていました。
応永7(1400)年6月15日に満兼が三嶋大社(静岡県三島市)に提出した願文が現存しています。そこに書かれた文言を見てみましょう。長いので少しずつ引用します。
「私は誤った狭い考えで大軍を起こそうとしたが、私を補佐してくれた者の深い考えによって和睦することに決した。そこで出陣を中断し、すぐさま時の情勢に従った。重ねて得られた諫言ももっともなものだった」
満兼は幕府に反逆したことを認めた上で、周囲の諫言によって反逆を中止した旨を正直に記しています。「補佐してくれた者」とは上杉憲定を始めとする鎌倉府のメンバーのことでしょう。
「もし運の良し悪しが定まるとすれば、それは神仏の叡慮によるものだろう。神仏の叡慮に逆らえば望みは何も達せられず、一方叡慮に従えばおのずから運が開けるだろう。力を求めず、いたずらに心を乱されず、諫言のとおりに直ちに反逆の心を撤回して、自らの過ちを詫びたいと思う」
ここが極めて微妙な表現です。一見すると今回の挙兵は「神仏の叡慮」に合致していなかったと自覚し、反省しているように見えますが、角度を変えてみると「もし合致していたら幕府転覆に動いていただろう」と言っているようにも見えます。つまり、満兼は自らの敗北を認めただけであり、幕府に正義があると認めたわけではないのです。
「以上の旨を願文に記してただ神慮を仰ぎ、都鄙の無事と家門の繁栄を願うものである」
都鄙(とひ)とは都(京)と鄙(ひな:東国)のことで、すなわち室町幕府と鎌倉府のことです(室町時代全体を通して都鄙関係が良好だった時期はほとんどないので、今後もよく登場する言葉です)。つまり満兼は、幕府と鎌倉府が仲良く争うことなく共に繁栄していくことを願うと述べているのです。
この願文は満兼自身が5月に三島大社を訪れ、奉納したものです。恐らく幕府高官の目に触れることも意識した文章でしょう。その割にはずいぶんと挑戦的な文言が含まれている気がしますね。
ともあれ、満兼に対してはお咎めなしとの判断が出されました。こんな挑戦的な願文が功を奏したとは思えませんので、伊達政宗の乱の影響でしょう。つくづく満兼は幸運だったと思います。
