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日本人の物語00561【鎌倉前期】曽我兄弟の仇討ち 領地横領

 工藤家は、養子・伊東祐継と孫・河津祐親とで分裂してしまったわけですが、河津祐親はひどく不満を感じていました。
「私はこの地域を開発した領主・工藤祐隆の嫡孫であり、その領地の中心地である伊東を自分が拝領してもよいはずである。そこに、血のつながりのない後妻の連れ子の息子ごときが伊東姓を名乗って私より大きな領地を保有しているとは、我慢がならぬ」
というわけです。
 そんな河津祐親の不満を知ってか知らずか、工藤祐隆は孫・河津祐親に対し、
「祐継が死んだら、その子・祐経(すけつね)を引き取って養育するように」
と遺言して死んでいきました。両家は互いに仲良くせよというわけです。自ら対立の原因を生んでおいて、何とも呑気なものです。
 さて、その後さらに伊東祐継が病死しました。河津祐親はさっそく積年の恨みを晴らすべく、行動を開始します。伊東の地に乗り込んで、
「私が伊東祐経の後見として、伊東を治める」
と宣言し、自ら「伊東祐親」と名乗るようになったのです。既に登場した、頼朝の最初の子・千鶴丸を殺害したあの伊東祐親です。
 伊東祐親は、最初のうちは祖父の遺言通りに祐経を養育していました。祐経が13歳になると「工藤祐経」という名で元服させ、自らの娘の万却(まんごう)と結婚させたほどですから、まあ世間体はうまく取り繕っていたと言ってよいでしょう。
 しかし祐親はやがて祐経を体よく追い出して、伊東の地を横領しようとするのです。
 祐親は祐経に、
「お前が元服した記念に、平重盛様に引き合わせてやろう」
と言って都に連れて行き、なんとそのまま祐経に
「せっかくだから都勤めを経験して来たらどうだ」
と申し向け、言わば放置して自分だけ伊東に帰ってきてしまいます。体よく祐経を追い出してしまったというわけです。
 伊豆に帰ってきた伊東祐親は、なんと自らの子を河津祐泰(かわづすけやす:1146~1176)と名乗らせて、河津の領地を治めさせました。もはや、伊東も河津も全て自分とその子孫が治めるというわけです。
 こうして工藤家の内紛は徐々に深刻化していきました。

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