日本人の物語01253【室町/義満期】義満、関白を辞職させる
相国寺の大塔は、この前NHKの「歴史探偵」で特集されていました。映画『室町無頼』でもシンボルとして登場していました。
大内義弘が九州で独立しようとする動きを見せている中、京での義満の権勢は高まるばかりでした。
応永6(1399)年4月。興福寺の金堂で仏事が行われ、多くの公卿がこれに参加しました。ここで二条師嗣(もろつぐ:1356~1400)・満基父子が式中に馬副(うまぞえ:馬を率いてくる家来)を連れて来なかったことが、義満の機嫌を損ねてしまいます。ついつい略式で良いだろうと言って原則を破ってしまったことが、儀式を軽んじていると責められたのです。
義満を怒らせては宮中では生きていけません。慌てた関白・二条師嗣は、4月13日に辞表を提出しました。義満はもはや出家した身であって現役の公卿ではないのに、公卿の頂点にいるはずの関白が辞表を出すとは、義満がいかに恐れられていたかが分かります。
ところが師嗣の辞表は後小松天皇に受理されませんでした。義満の差配によって天皇も操られていたのです。師嗣は
「辞職してもダメということは、もはや出家しかない」
と考え、4月17日に出家しました。これにて辞表が受理されなくても、自動的に関白を辞任した扱いとなります。関白の職は一条経嗣に引き継がれました。
4月23日に、義満が師嗣に
「急な出家の知らせに驚いております」
と手紙を送っています。自分がそうなるように仕向けたのにこのような手紙を送るのは、明らかな嫌味でしょう。師嗣は返書の形式に悩んだ挙句、義満を宛先に据えるのは失礼とみて、義満に仕える稚児に過ぎない満千代丸(まんちよまる)を宛先としました。これは上皇に書状を贈るときの形式に当たります。
9月には、義満が発起人となって建てられた相国寺の大塔が完成しました。七重で36丈(109メートル)の塔であり、興国3/康永元(1342)年に火事で焼失した法勝寺の八角九重の塔(81メートル)を超えようとしたものでしょう。法勝寺とは平安後期の白河法皇の寺ですから、白河法皇への対抗意識があったと思われます。
塔の完成供養では、
・呪願師は仁和寺の永助法親王(えいじょほっしんのう:1362~1437)
・導師は天台座主の尊道入道親王(そんどうにゅうどうしんのう:1332~1403)
が務めました。禅宗の儀式なのに旧寺社の最高幹部が導師を務めるとは前代未聞のことですし、しかもこの式典には興福寺までもが参列していました。興福寺の記録には「力なき次第」と書かれており、不本意ながら参列せざるを得なかったようです。
この塔は僅か4年後に落雷で焼失して建て替えられる運命にあるものの、義満の権力を象徴するものだったといえます。
