日本人の物語01379【室町/義教期】結城合戦 篠川公方死す
永享の乱で稲村公方満貞が死去しましたが、今度は篠川公方満直が死にます。室町時代は「〇〇公方」という人が多すぎてだんだん覚えられなくなってきます。
春王丸と安王丸が結城城に匿われたことを知った小山持政は、このことをすぐに幕府に通報しました。これまで下総結城氏と一心同体だったはずの小山氏が、なんと幕府方に回ってしまったのです。それどころか白河結城氏も篠川御所満直も幕府方であり、結城城は敵に取り囲まれているといってよいでしょう。
さらに悪いことに、下総結城氏朝が春王丸・安王丸を匿おうと決めたことを家老4人の前で発表したところ、4人中3人までもが
「そんな重要なことを勝手に決めたのか」
と激怒し、出家遁世してしまったのです。
氏朝はどうにかして味方を増やそうと、北関東の武士たちに助力を求めます。すると宇都宮等綱、桃井憲義、佐竹義人といった旧持氏派の武将たちが結城城に集結してきました。氏朝は結城城に堀を築いて要塞化し、さらに出城として古河城(茨城県古河市)を占領しました。
永享12(1440)年3月15日。下総結城氏朝の反乱を知った幕府は、庁鼻和上杉憲信(こばなわうえすぎのりのぶ)と長尾景仲を結城に派遣し、討伐に当たらせました。持氏を失ったばかりの鎌倉府は未だ機能しておらず、幕府が関東管領・山内上杉清方を通して東国武士に指示を出していたようです。
さて、庁鼻和上杉氏という氏族が初めて登場しました。上杉氏については山内上杉、扇谷上杉、犬懸上杉などが既に登場していますが、庁鼻和上杉は上杉憲顕の子である憲英(のりひで:?~1404)が庁鼻和城(埼玉県深谷市)に根付いたことで始まった氏族です。
3月17日には幕府が扇谷上杉持朝のほか太田氏、千葉氏、二階堂氏らに合戦準備を命令した文書が残っています。史料不足で詳細が分かりませんが、この頃から戦闘が始まったとみられます。
4月17日、下総結城氏朝・岩松持国・桃井憲義の軍が小山持政の守る下野国宿城(栃木県小山市の祇園城のことと思われる)を攻撃しますが、敗れました。結城城も危うくなり、翌18日に氏朝は春王丸・安王丸を連れて一時的に中久喜城(栃木県小山市)へと避難したほどでした。その後、また勢力を回復した氏朝らは結城城に戻っています。
下総ではこのように結城方が苦戦していますが、南奥では逆に幕府方が追い込まれていきます。というのも、6月24日に結城方の石川持光らが篠川御所を襲撃し、幕府方・足利満直を自害に追い込んだのです。
幕府はさらに増員を図って結城方を撃滅するべく、引退した山内上杉憲実にも参戦を命じました。主君持氏を死なせたことを後悔していた憲実は、恐らく気乗りしなかったでしょうが、兵を率いて7月には小山城へと入城しました。いよいよ総攻撃が始まります。
「〇〇上杉氏」もだんだん増えてきましたね。とりあえず「山内上杉」「扇谷上杉」「越後上杉」の3氏だけ覚えておけば十分です。
