日本人の物語01580【室町/西国/応仁の乱】夫婦喧嘩と家出
大河ドラマ「花の乱」は、勝元と宗全が死んだところでもう最終回のような盛り上がりを見せ、その後は見せ場が減ってしまったような記憶があります。
細川勝元と山名宗全。応仁の乱の両軍の代表者がいずれも死去しました。後継者たる細川聡明丸と山名政豊は、いずれも戦闘意欲を持っていません。
両軍の諸将も多くが戦をやめたがっており、未だに戦おうとしているのは東軍の赤松政則と西軍の畠山義就くらいです。西軍の最大勢力である大内政弘は、領国で国人たちが力をつけ始めているのを警戒し、本心では早く帰国したいと考えていたようですが、何らの戦果もなく帰国するわけにいかず、北九州の守護職をいくつかを土産として持ち帰りたいと望んでいました。
京での戦いは事実上終結していたものの、地方での戦闘はまだまだ起こっています。
文明5(1473)年6月には、追放されていた甲斐敏光が越前に侵攻し、朝倉孝景と戦いました。
9月11日には、幕府は「六角高頼・斎藤妙椿らに所領を奪われた」と激怒している延暦寺に対し、六角高頼を討伐することを約束しました。9月30日には幕府は京極政経を北近江守護から近江全土の守護に格上げし、近江の戦乱への介入を強めました。
10月29日には、美濃守護代・斎藤妙椿が伊勢の長野藤継(ながのふじつぐ:1449~1486)を支援するべく北伊勢に侵攻し、梅戸城(三重県いなべ市)を陥落させました。伊勢ではかねてより西軍方・長野藤継が東軍方の伊勢国司・北畠政郷(きたばたけまささと:?~1508?)と戦っており、妙椿に援軍を要請してきていたのです。
以上、越前・近江・伊勢それぞれの戦いを急ぎ足で紹介しました。いずれも東軍VS西軍の戦いではありますが、応仁の乱の一環というより、領地の主導権をめぐる争いという側面が強いものでした。勝元が西軍を牽制するために地方の国人たちの反乱を誘発させてきたため、いろんな地方において実力で領土を獲得する悪しき文化が根付いてしまったのです。
本来、こうした武力闘争を起こさせないために中央政権が存在するはずなのですが、幕府もまた紛争当事者となってしまったことですっかり権威を失っています。まして将軍義政は紛争解決に関心がないのか、室町御所が手狭だとの理由で、何度か滞在させてもらったことのある旧細川勝元邸を譲り受けて住み始めました。これを「小川御所(こかわごしょ)」と呼びます。
公家たちの日記によると、義政が小川御所に移った真の理由は富子との関係悪化のためといいます。将軍が妻と喧嘩して家出するとは何とも情けない話ですし、しかも二度目です。
富子も、夫を追い出したと言われるのが嫌だったのか、同時期に室町御所を出て北政所に転居しました。室町御所には年端も行かない義尚と後土御門天皇が残されてしまい、何とも気まずい思いをしたことでしょう。義政・富子は程なくして戻ってきましたが、戦乱のさなかに将軍が夫婦喧嘩を何度も起こしたことは、ただでさえ凋落している幕府の権威をさらに貶めたと思われます。
これだけ社会を混乱させておきながら、自らはくだらない夫婦喧嘩をしているとは、為政者としていかがものかと思います。
