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日本人の物語01549【室町/西国/応仁の乱】三宝院の戦い

「野老」と書いて「ところ」と読む人物が登場します。変わった苗字ですよね。「トコロ」という植物が老人の髭みたいに見えるからだそうです。

 大内軍の参戦で勢いを得た西軍は、応仁元(1467)年9月1日、東軍拠点である土御門万里小路の三宝院(京都市伏見区)を攻撃しました。ここは東軍・武田信賢の拠点です。攻撃を担当したのは畠山義就・土岐成頼・六角高頼らでした。
 三宝院を守っていたのは信賢の弟・武田元綱(たけだもとつな:1441~1505)でした。元綱は力の強い大男で、一人で門前に立って敵を次々と討っていきます。西軍方は攻めあぐねてしまいますが、熊野の侍・野老源三(ところげんぞう:?~1467)という評判の剛の者が登場し、
「たった一人の敵に多くの味方が討たれたのは無念である。私が止めてみせよう」
といって、元綱に飛びかかっていきました。
 野老源三は鎧・兜を2重に着ており、元綱の太刀を受けるつもりで飛びかかっていったようです。元綱が太刀で野老源三の頭部を打ちますが、太刀はポキッと折れてしまいました。元綱は武器を失い退却しますが、誰もその強さを恐れて追いかけようともしません。
 見事元綱を退けた野老源三でしたが、当初は少しも痛そうに見えなかったものの、やがて目と口から出血して死んだといいます。元綱の怪力、実に恐るべしです。なお、この元綱は3年後の文明2/享徳19(1470)年末頃に兄・信賢と対立して西軍方に寝返り、東軍にとって大きな脅威となります。
 武田元綱が不在となった東軍はたちまち総崩れとなり、敗走していきました。西軍はそのまま三宝院になだれ込み、放火してしまいます。武田軍のみならず、三宝院の浄華院を拠点としていた京極持清軍も駆逐されました。
 仏教寺院が巻き添え被害に遭っていることを深刻に受け止めた義政は、9月8日、両畠山に停戦を勧告しました。義就宛ての書状で
「不本意ではあろうが、分国に帰るように。河内は政長・義就の2人で分け合うように」
と書かれたものが残っています。しかし西軍は耳を貸しません。
 9月13日になると、宗全による勝元邸への攻撃が行われました。そのドサクサに紛れて、畠山義就はなんと空き家となった内裏・仙洞御所を占領してしまいます。上皇・天皇の住まいを占拠するとはひどい話です。
 この日は伏見殿、日野勝光邸、一条兼良邸などが炎上し、内裏から東側は焼け野原となりました。一条兼良の図書館「桃華坊」の蔵書も焼失してしまいました。
 このとき65歳の一条兼良は当代随一の学者でした。17歳のときに4代将軍義持が
「白馬節会を『あおうまのせちえ』と読むのはなぜか」
と尋ねた際、兼良だけがこれに答えられたため感心されたとのエピソードで知られています。兼良は50年以上に渡って古今東西の文献を収集して「桃華坊」を築き上げたのですが、それが焼失したことは一条家のみならず国家にとっても大きな損失だったでしょう。

「白馬の節会」と書いて「あおうまのせちえ」と読む。これはかつて本当に青い馬を使った行事だったらしく、白い馬に変更された後も読み方は以前のままだったとのことです。

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