日本人の物語01223【南北朝最末期】土岐康行の乱 没落
人物索引も作ってみたいんですが、今から作るとなると膨大な作業になりそうです。しばらくは手につかなさそうですね。
土岐頼忠・頼益父子がちっとも出撃しないので、しびれを切らした義満は京極高秀と土岐満貞を鎮圧軍として送り込みました。いずれも斯波派に属する大名であり、斯波派同士で戦わせようという魂胆でした。
元中7/明徳元(1390)年閏3月。京極高秀・土岐満貞は小島城(岐阜県揖斐川町)の戦いで康行を破り、越前に敗走させました。康行の保有していた美濃・伊勢の守護職は没収され、美濃国は戦功のあった土岐頼忠に、伊勢国は仁木義長の子・満長(みつなが)に、それぞれ与えられました。3ヶ国の守護職を持っていた土岐氏は、こうして美濃・尾張2ヶ国の守護へと成り下がったのでした。
そもそも土岐康行が反逆に走った理由は、康行に美濃・伊勢の継承のみを許し、尾張が康行の弟である満貞に与えられたことでしたね。しかし満貞はこの翌年、明徳の乱での失態を理由に尾張守護を罷免されることとなります(詳細は後述)。いわば鉄砲玉として利用された上で捨てられた格好です。
一方康行はというと、必死に運動して翌年の明徳の乱で活躍し、伊勢守護に任命してもらうことができました。その後も断続的に子孫が伊勢守護職に任命されているため、ある程度家名を残すことができたといえます。
元中7/明徳元(1390)年9月、土岐の処分を終えた義満は、今度は越前国の気比神社(福井県敦賀市)参詣に出かけました。越前は管領・斯波義将の守護国ですので、駿河の今川家、讃岐の細川家、周防の大内家に続いて越前の斯波家を訪れることで、義満はアンチ細川派にも気を遣ってバランスを取ろうとしたのかもしれません。
しかし義満の細川びいきは明らかでした。同じ9月には細川頼之は備後に加えて備中の守護にも任命され(このとき山名から備後守護職を取り上げているのですが、詳細は後述します)、元中8/明徳2(1391)年3月には備後平定の論功行賞として、後小松天皇から「錦の御旗」まで下賜されました。もはや頼之の管領復帰は時間の問題かと思われました。
この流れを見た斯波義将は身の危険を感じ、3月12日、管領を辞任して領国の越前に帰国してしまいました。敵のいなくなった義満はさっそく頼之・頼元に上洛を促します。
4月8日、細川頼之に代わって養子の頼元が第4代管領に任じられました。事実上は頼之の政界復帰といってよいでしょう。康暦の政変から実に12年ぶりの逆転劇でした。
9月15日には義満は春日大社参詣の旅に出ました。室町幕府開創以来、春日大社と興福寺は何度も強訴を起こして朝廷・幕府に圧力をかけていましたが、ここ最近すっかり力を失っていました。二条良基が放氏処分をものともせず出勤し続けたことで、他の公卿たちも放氏を怖がらなくなってしまったのでしょう。
邪魔者の斯波義将もいなくなり、仏教勢力も手なづけたところで、義満はいよいよ山名つぶしを始めます。
