日本人の物語01209【南北朝最末期】後円融天皇の苛立ち
この連載を始めるまで、中世の天皇のエピソードがこんなに豊富に伝わっていたとは知りませんでした。歴史を知っているつもりでもまだまだ知らないことがありますね。
義満の権威が高まる一方で存在感を失いつつあった後円融天皇は徐々に苛立つようになります。そのきっかけとなったのが三条公忠でした。
弘和元/永徳元(1381)年8月12日。三条公忠は、直衣始の際に協力した対価として、義満に土地を要求しました。公忠の息子・実冬が義満の車の簾を上げる役を演じたわけですから、対価を要求すること自体は特に問題ありません。
しかし問題は、要求した土地が洛中のものだったことです。守護が保有する土地ならば将軍の権限でどうにかできますが、洛中の土地は天皇の専権事項ですから、天皇の決裁が必要です。
義満も困ったでしょうが、とりあえず後円融天皇に土地を譲ってもらえるよう申請を出しました。これに後円融天皇は激怒します。天皇に直接申請するのではなく、義満を通した方が通りやすいだろうと考えた三条公忠のやり方に立腹したのでしょう。
8月22日。後円融天皇は側室・三条厳子(さんじょうたかこ:1351~1407)を通して義満に拒絶の旨を回答しました。厳子は公忠の娘でもあるので、義満への回答と見せて実際には公忠への回答のつもりだったのでしょう。
ところが8月24日、後円融天皇は一転して
「やはり武家執奏(幕府との取り次ぎ役を務める三条公忠のこと)は無視できない」
として許可する旨の綸旨を出しました。ところが、あわせて
「今後は厳子の顔は見たくない」
と述べ、側室厳子を追放すると言い出したのです。
公忠は慌てて参内し、厳子追放を思いとどまるよう必死に説得を重ねました。後円融天皇が
「それならあの土地を所望するのをやめよ。辞退するならば代わりの土地を与えても良い」
と述べたため、公忠は代わりの土地をもらい、厳子追放は撤回されました。
一件落着といったところですが、さらに11月17日、後円融天皇は不可解な綸旨を出しました。
「京中の土地は全て現在の所有者から没収し、本来の持ち主に返すこと。ただし武家執奏である二条良基と三条公忠の土地だけは除外する」
というのです。これは当然、履行不可能な命令ですから履行されることなく捨て置かれました。ヤケを起こしたとしか考えられない綸旨です。
思うに、後円融天皇は「幕府の息のかかった良基と公忠だけは私の思い通りにならない」という現状を愚痴るために履行不可能な綸旨を出したのではないでしょうか。これほどに不可解な行動を起こすほど、天皇のストレスは溜まっていたようです。
