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日本人の物語01574【室町/西国/応仁の乱】朝倉孝景の寝返り

歴史の本を読んでいて「遠縁」という表現が出てくると、どのくらい遠いのかついつい調べてしまいます。

 細川勝元が西軍最強武将・朝倉孝景を寝返らせようと工作し始めたことは既に述べました。その続きを追ってみましょう。
 この頃、越前には畠山政国が滞在していました。ちなみにこれまで登場してきた畠山氏を軽く復習すると、義就・政長が河内畠山氏に属し、政国が能登畠山氏に属します。義就・政長の4代祖先と政国の5代祖先が同一人物(畠山義深)という遠縁です。
 河内畠山氏の内部で義就(西軍)と政長(東軍)の紛争が始まると、政国は義就を支持し、義就の猶子となって関係を強化しました。しかし義就に実子・修羅(しゅら:1468~1483)が産まれると義就との関係が悪化し、越前へと落ち延びていました。それにしても息子の幼名に「修羅」と付けるとは、猛将義就らしい命名です。
 文明2(1470)年10月5日。朝倉孝景はこの畠山政国を殺害しました。義就の命によるものとみられ、つまり孝景はこの時点では西軍・義就に忠誠を誓っていたのです。
 ところが文明3(1471)年2月になって、孝景のもとに勝元から
「東軍に寝返ってくれれば、そなたを越前守護に補任してもよい」
との連絡があり、寝返りを決心したといわれています。元々は国人領主に過ぎなかった朝倉氏にとって、守護代ですら過分な役職であるのに、まして守護への補任とは信じがたい出世です。
 5月21日付けで幕府から孝景に
「朝倉家の中で誰を越前守護にしてもよい」
との書状が出されました。これは実に微妙な表現です。かつてはこれをもって孝景が守護に補任されたとする説が有力でしたが、現在では
「幕府は巧妙に直接的な表現を避けており、これでは補任とは認められない」
とされています。やはり幕府にとっても、主家の斯波家を差し置いて一介の国人領主を守護に補任するのは勇気のいる決断だったでしょうし、孝景自身が自らを守護と称する文書も残っていません。自称するのは憚られたのでしょう。
 6月8日夜。孝景の代わりに在京していた嫡男の朝倉氏景は、山名宗全邸での宴に出席した後、密かに西軍陣営から抜け出し細川成之の屋敷へと移動しました。そして翌9日に義政に謁見し、東軍につくことを表明します。西軍はここで初めて、孝景・氏景父子が裏切ったことを知ったでしょう。
 6月10日になると、孝景は越前で東軍方として挙兵し、23日には氏景が越前へ下って父と合流しました。しかし7月21日に孝景・氏景父子は上手く味方を集められず甲斐方に敗れています。あまり味方が集まらなかったということは、やはり孝景は周囲から守護とは思われていなかったものと推察されます。

古い本では「朝倉孝景は越前守護だ」と書いてあり、最近の本では「そうではない」と書いてあるので、古い本だけで勉強するわけにいかないのが難点です。

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