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日本人の物語01205【南北朝最末期】義満の権威 権力の逆転

足利義満の時代が本格的に始まりました。このあたり、大河ドラマで見てみたいですね。

 ここからは、義満の権威がみるみる高まっていく様子をご覧いただくことになります。
 天授6/康暦2(1380)年8月7日。義満は後円融天皇を訪ねるため宮中に入りました。このとき後円融天皇は酒宴の最中だったため、義満は拝謁せず帰りましたが、義満訪問を知った天皇は慌てて義満を呼び戻すための使者を派遣しました。臣下に過ぎない義満に対して丁重過ぎる態度です。
 義満は宮中に戻ってきてそのまま酒宴に参加しましたが、義満の用件は「天皇に笙の演奏を薦めたい」とのことでした。
 義満が後円融天皇に笙を薦めたのは、単に趣味を身につけてはどうかと言いたかったのではなく、政治的意図によるものでした。というのも、鎌倉後期以降、持明院統では琵琶、大覚寺統では笛が重んじられて来ました。持明院統の崇光天皇もまた、琵琶を習っていたわけですが、崇光天皇とライバル関係にある弟の後光厳天皇は、南朝との統一を意図してあえて琵琶ではなく管楽器である笙を習っていました。
 つまり笙を習うことは、ただ持明院統(北朝)の隆盛を願うだけでなく、大覚寺統(南朝)との融和も図っているぞと内外に示すことになるのです。義満は、後光厳の子である後円融天皇にも、笙を習って南北朝統一を狙っていることを内外に示してもらいたかったのでしょう。
 しかし、義満のそうした政治的意図は、後円融天皇には伝わりませんでした。天皇が曖昧な回答に終始したので、義満は不満そうだったといいます。
 天授7/永徳元(1381)年3月。今度は後円融天皇が義満の在所である「花の御所」を訪問しました。徒歩5分の距離にあるとはいえ、天皇が臣下の自宅に行幸したことは義満の権威を大いに高めることになりました。
 同年6月には幕府から赦免を受けた細川頼元が上洛し、6月5日には細川邸に義満を招いて赦免を感謝する宴を催しました。宴にはなんと、斯波義将・山名時義・山名氏清らも出席し、細川派と斯波派の呉越同舟となりました。斯波派はやきもきしたでしょうが、義満が細川邸に行くといえば止めることができないわけです。
 康暦の政変から2年、あの頃は斯波義将の掌の上で踊らされていた義満が、今や独自の権力を手にしているようです。斯波義将は細川頼之討伐に失敗したことでその権力が弱まり、一方義満は春日神木事件を解決させた手腕を買われて宮中で存在感を増し、徐々に権力の逆転が起こっているように見えます。
 そして7月23日の内大臣就任で、義満はかつてない権力を内外に示すこととなるのです。

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