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日本人の物語00250【平安前期】藤原園人の善政

 平城天皇の治世は延暦25(806)年から大同4(809)年までの僅か3年間なのですが、その間に民衆のための善政を実施したのが、藤原園人(ふじわらのそのひと:756~819)という人物です。園人は、北家の祖・藤原房前の孫に当たります。
 園人は、延暦2(783)年から一時的に少納言・右少弁を務めたものの、その後は備中守、安芸守、大宰少弐、豊後守、大和守と、長く地方官として勤務し、なかなか中央政府からお呼びがかからなかったようです。しかし地方で非常に評判が良かったらしく、豊後国には園人の遺徳を讃える祠が建てられています。
 園人が都へ戻されたのは延暦17(798)年、右京大夫に叙任されたときでした。そこからやっと、右大弁、大蔵卿と要職を歴任していくこととなります。
 大同元(806)年に平城天皇が即位すると、園人はようやく公卿に昇進しました。園人が積極的に政策を立案、実行していくのはこの頃からです。
 園人が行ったことをまとめると、「貧民の救済に努めた」の一言に尽きるでしょう。園人の実施した政策を箇条書きでまとめてみましょう。
・九州から平安京に向かう役人を送迎する業務に従事するため、九州の民が疲弊している。九州の役人は国司の任期(4年)が満了した者を除き、入京を禁止する。
・山海から得られる収穫を有力貴族や寺社が占有することを禁止する。
・上級役人に与えられる領地(封戸:ふこ)が播磨国(兵庫県)に集中しているが、平安京に近いせいで領民たちが頻繁に京での雑用を課せられ、疲弊している。そこで、封戸は東国へ移すこととする。
・山陽道の5ヶ国(播磨国・備中国・備後国・安芸国・周防国)は、たびたびの不作によって税の未納が発生している。本来の課税品目は雑穀だが、納めやすいように稲の形式での納税を認める。また、一部については納税を免除する。
 いかがでしょうか。いずれも貧民の負担を軽減しようとするもので、このような善政は平安時代全体を通してほとんど行われて来なかったと思われます。
 園人の時代には、墾田永年私財法によって有力貴族や寺社が土地を開発し、そのため貧民が圧迫され、貧富の差が開いて来るという社会矛盾が噴出していました。この社会矛盾は平安時代を通してますます拡大して行くのですが、かくも早い段階で効果的な政策を実施した為政者がいたとは驚きです。
 残念ながら園人は弘仁9(818)年に死去し、それ以降の為政者たちは貧民たちに冷淡な者が多くなります。この後、政府が貧民対策に本格的に対処し始めるのは平安後期の後三条天皇の登場を待たなければなりません。

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