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日本人の物語01583【室町/西国/応仁の乱】蓮如 継母のいじめ

五木寛之の『蓮如物語』を読んだところ、蓮如の実母探しの話がメインでした。

 文明6(1474)年11月1日。吉崎御坊(福井県あわら市)の一向宗徒らが、東軍方の富樫政親(とがしまさちか:1455~1488)と結びつき、西軍方の南加賀守護・富樫幸千代(とがしこうちよ:1460?~?)を加賀から駆逐しました。一向宗徒がかくも力をつけるようになった背景には、一向宗(浄土真宗)の中興の祖である蓮如(れんにょ:1415~1499)の存在がありました。ここから時間を遡って、蓮如の生涯を見ていきましょう。
 蓮如は応永22(1415)年2月25日、大谷本願寺(京都市東山区)の住持・存如(ぞんにょ:1396~1457)の子として産まれました。母は寺に仕える侍女で、名前も残らない身分の女性だったようです。
 応永27(1420)年12月28日。母は5歳の蓮如を残して寺を出ていきました。存如に将軍奉公衆の海老名家の娘・如円(にょえん)との縁談が舞い込んできたため、邪魔になって追い出されたのです。母はせめてもの思い出にと、絵師に蓮如の姿を描かせ、その絵を抱えてどことも知れず出奔していきました。
 蓮如は5歳で別れた母を生涯忘れず、40歳を過ぎてからこの画家に連絡を取り、残っていた当時の下書きのうちの1枚を完成させてもらい、その絵を譲り受けました。(母の絵ではなく自分の絵ではありますが)恐らく母を探すための手がかりにしようとしたのでしょう。しかし、蓮如は結局その母とは会えずじまいでした。
 さて、蓮如の継母に当たる如円については「子は産まれなかった」との説もあれば、「1男5女をもうけ、蓮如をいじめ抜くとんでもない悪女だった」との説もあります。蓮如に同情を集めるための創作エピソードのような気もしますが、一応悪女説に沿って見ていきましょう。
 如円は自らが産んだ6人の子、特に男子である応玄(おうげん)を優遇し、それ以外の7人の子(つまり子は13人もいたのです)をひどく冷遇しました。7人全員を外に奉公に出そうとしたものの、長男たる蓮如だけは出せなかったそうです。
 蓮如は継母にいじめられながら青年期を過ごし、28歳のとき伊勢貞房(いせさだふさ)の娘・如了(にょりょう:1424~1455)と結婚しました。親子3人の生活でしたが、如円は自らの使用人を5人も雇っていながら、蓮如親子3人には一汁しか与えませんでした。その後蓮如は、如了との間に四男三女をもうけます。
 35歳のとき、蓮如は父と北陸に布教活動に出かけました。このときだけは継母と離れられホッとする瞬間だったでしょう。

日本仏教史において蓮如は親鸞以上の重要人物かもしれません。

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