見出し画像

日本人の物語00257【平安前期】53代淳和天皇

 嵯峨天皇の治世下で、皇太子時代から長年嵯峨天皇の側近を務めてきた藤原冬嗣は、弘仁9(818)年には大納言に昇進し、権勢を誇っていました。
 弘仁11(820)年4月9日。干ばつによる不作と飢饉が発生し、冬嗣は
「一昨年以前の租税未納は免除する」
と布告しました。飢餓にあえぐ国民を救済するため、冬嗣は国の歳入を犠牲にしたのです。なかなかの善政といえます。
 弘仁13(822)年にまた大規模な干ばつが起こり、冬嗣は
「私財をなげうって飢民を救った者に位階を与える」
と発表しました。財政投資が困難だったため、民間の財力を活用しようとしたのです。なかなかの知恵者ですね。
 このように干ばつが続く中で冬嗣が貧民の救済に心を砕いていたにもかかわらず、弘仁14(823)年、嵯峨天皇は財政のさらなる逼迫を招くことを言い出しました。弟の皇太子・大伴親王に譲位したいと言うのです。
 当時、まだ平城上皇も健在でしたから、藤原冬嗣は
「上皇が2人になってしまうため、財政負担が大きい」
として反対しました。上皇も天皇も、それなりの格式を保つために様々な儀式を行わなければならず、その費用は莫大なものだったと考えられます。
 しかし嵯峨天皇は、長年の信頼関係を築いてきたはずの腹心の意見を聞かず、4月16日、反対を押し切って強行に譲位してしまいました。こうして大伴親王が即位しました。淳和天皇です。
 この譲位に伴い、嵯峨天皇の子である正良親王(まさらしんのう:後の仁明天皇:810~850)が皇太子となりました。嵯峨天皇から見ると、
「皇位は一旦弟に譲るけれども、その後は私の子が継ぐぞ」
というわけです。冬嗣は娘を正良親王に嫁がせていますから、正良親王が将来即位してくれれば、冬嗣一家はますます安泰です。
 さらに、嵯峨天皇の娘である正子内親王(まさこないしんのう:810~879)が皇后となりました。嵯峨天皇は、天皇となった弟に対して自分の娘を嫁がせているわけで、弟が良からぬことを企んだりしないよう、監視する役割を負わせていたのかもしれません。兄との対立に悩まされた嵯峨天皇だからこそ、弟との関係についても猜疑心をもって慎重になっていたのでしょう。
 余談ですが、大伴氏は天皇(大伴親王)と同名であることを憚って、「伴(とも)」と改姓しました。今後登場する伴善男などは、元々は大伴姓を名乗っていたのです。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集