日本人の物語01336【室町/義持期】赤松持貞切腹
今回紹介するのは、(捉えようによりますが)義持の最大の悪事かもしれません。
義持の赤松満祐討伐の命を受け、赤松満弘・貞村といった分家筋と山名時熙が将軍の命を受けて戦闘準備に入りました。
しかし義持の命令には反対する者も多くいました。応永34(1427)年11月3日、管領・畠山満家が義持の命令を「軽率」と諫言し、出兵に反対したのです。重臣・細川持元(ほそかわもちもと:1399~1429)も将軍から連日催促を受けたにもかかわらず軍を動かそうとしません。普段は義持に従順な満済ですら「粗忽の御成敗」と非難しています。
11月4日、山名時熙は討伐に出発しましたが、一色義貫は適当な理由をつけて出発しません。
さて、赤松満祐討伐は意外な形で決着がつきました。11月10日、畠山満慶邸への御成りを終えた義持が三条坊門第の門前に差し掛かったとき、書状を捧げてきた僧侶がいました。つまり直訴です。
近習の畠山持重(はたけやまもちしげ)がこの書状を取り上げて義持に見せたところ、なんとそこには播磨を拝領した赤松持貞の不義密通について記されていました。
激怒した義持はさっそく側近に持貞を尋問させます。持貞は潔白を訴えますが、義持は「罪状は明白」と一蹴します。持貞に泣きつかれた満済は11月12日に「まずは事実確認をすべき」と義持に訴えますが、義持は
「かの女中(不倫相手のことか)に尋ね、既に事態は究明済みである」
として取り合いません。満済は納得しないまま一旦退出し、赤松持貞に会って
「一旦、高野山に隠居しながら無実を訴えてみては」
と薦め、持貞もこれを了承しました。
翌日、満済は再び三条坊門第に行って助命嘆願しますが、義持は
「既に奴を死罪とすることを神に誓った」
などと言い出して拒絶し、持貞に切腹を命じました。
結局、赤松持貞は11月13日に切腹させられ、満祐討伐は中止となりました。満済は日記に「浅ましい天魔の所行」と記し、嘆きました。
この持貞失脚劇は一体何を意味しているのでしょうか。義持は何か情報が入るとすぐに信じてしまう安易な性格だったということでしょうか。
あるいは、持貞が満祐討伐を中止するためのスケープゴートとされた可能性も指摘されています。つまり、無理に満祐を討伐しようとする義持に対し、管領畠山たちの反乱計画が持ち上がっており、それを知った義持は何らかの理由をでっち上げて満祐討伐を中止せざるを得なかったというわけです。
いずれにせよ、義持は気まぐれな独裁者か、あるいは保身のためなら側近をも斬り捨てる残忍な性格であったと考えられます。
「既に死罪とすることを神に誓った」というのが判断を変更できない理由になるのだとしたら、もう何でもありですね。
