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日本人の物語00430【平安後期】79代六条天皇

 さて、平家と後白河の蜜月を見てきましたが、朝廷内で後白河に対抗できる勢力がまだ一つだけ残っていました。後白河の子・二条天皇です。
 二条天皇は政権運営に意欲を示し、何事にも介入してくる父・後白河を煙たく感じていました。この二条天皇の存在は、後白河との連携によって実権を握ろうとする清盛にとっては、大きなリスクだったといえます。
 平滋子が憲仁親王を出産した僅か2週間後、大きな政変がありました。滋子の兄・時忠(ときただ:1130?~1189)が、憲仁親王を早くも立太子させようと画策していたことが発覚したのです。平家の血を引く皇子、それも時忠にとって甥にあたる皇子を天皇に据えようとしたわけですから、二条天皇はひどく不快感を示しました。二条天皇は時忠を解官するとともに、藤原成親ら後白河派の公卿もこれに加担していたとして、あわせて解官してしまったのです。
 この政変に対して清盛が取った一手は、なんと二条天皇の判断を支持し、賛意を表すことでした。清盛は、妻の兄に当たる時忠の解官を支持し、二条天皇に従順な姿勢を見せました。言わば清盛は、後白河と二条の両方に適度にすり寄り、適度な距離感を保つことで、どちらの派閥が勝っても良いように盤石の体制を築いたのでした。
 しかし、後白河と二条の対立は意外にも早い段階で幕を閉じました。永万元(1165)年6月、二条天皇は病に倒れ、譲位を余儀なくされました。二条天皇が次の天皇に選んだのは、産まれたばかりの順仁親王(のぶひとしんのう:1164~1176)でした。
 清盛としては、もちろん平家の血を引く憲仁親王の即位を望んでいたでしょうが、ここで無理は禁物です。清盛は二条天皇の意志に反する動きは一切見せず、順仁親王の即位をただただ見守りました。
 6月25日。順仁親王は即位しました。六条天皇です。0歳7ヶ月での即位は史上最年少で、今に至るまでこの記録は破られていません。
 そして譲位から僅か1ヶ月後の7月28日、二条上皇は崩御しました。22歳の若さでした。
 後白河・二条の両方と関係を維持していた清盛は、これ以降、迷いなく後白河に接近していきます。そして後白河もまた、清盛と結びつくことで未だ朝廷内に残っている二条親政派を一掃し、復権を図るようになります。
 ここから、清盛と後白河の蜜月時代が始まるのです。ただし、蜜月といっても互いが互いを利用し合うだけの関係で、僅か10年後にはこの両者は対立する運命にあります。

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