日本人の物語00612【鎌倉前期】和田合戦 三浦の裏切り*
建暦3(1213)年3月8日。伊北庄から鎌倉に戻ってきた和田義盛は、将軍実朝に謁見して赦免を願い出ました。吾妻鏡には
「これまでの勲功に免じて義直と義重は釈放された」
と書いてありますから、
「謀反に加担していたことは事実だが罪に問わないこととする」
という意味なのでしょう。そもそも無実だと思っている義盛にとっては不満の残る決定だったと思われますが、我が子が無事に帰されたことに安堵したことでしょう。
しかし翌9日、義盛は思ってもみなかった決定を聞かされることとなります。
「甥の胤長だけは、首謀者であるから許されない」
と北条義時から返答があったのです。
義盛は一族を率いて抗議に向かいますが、義時は聞く耳を持ちません。そのまま
「胤長は罪人として二階堂行村(にかいどうゆきむら)に引き渡す」
として、義盛たちの目の前で、後ろ手に縛られた胤長が惨めな姿をさらして引き渡されていきました。わざと義盛を挑発するためにこの姿を見せたものと思われます。
このときの憤りが、義盛に決起を決意させたといわれています。
義時による和田一族への挑発は続きます。4月2日、胤長の所領が没収され、義時がこれを拝領することとなったのです。
和田義盛は三浦一族の出身で、三浦義村とは従兄弟に当たります。義盛は三浦義村と、その弟である胤義(たねよし:1185?~1221)に
「北条を討ちたい」
と相談し、挙兵に参加するよう呼びかけました。
三浦兄弟は起請文を提出して、これに参加することを誓約しますが、これはブラフでした。三浦義村は和田の決起を密かに義時に知らせておいたのです。
5月2日。和田義盛は一族を率いて決起し、大倉御所にいた北条義時・大江広元を襲撃しました。義時は和田が決起することを知ってはいたものの、今日起こるものとは知らず、警備は手薄でした。
和田一族は3千騎もの兵力です。鎌倉の狭い市街地で、3千騎の反乱軍とそれ以外の御家人とで全力を挙げた市街戦が始まったのですから、住民をも巻き込んだ大混乱であったと推察されます。

