見出し画像

日本人の物語01466【室町/西国/大乱前夜】今参局登場

タイトルを『30年日本史』から『日本人の物語』に変更することとしました。といっても、30年連載する予定であることは変わりません。引き続きよろしくお願いします。

 宝徳2(1450)年7月。将軍に就任して間もない義政は、さっそく政治に身を乗り出します。最初に行ったのは、尾張守護代の家督問題への介入でした。
 このとき尾張守護は斯波義健が、尾張守護代は織田家が務めていました。織田家とは言うまでもなく戦国時代に織田信長を生み出すあの織田家ですが、実はそのルーツは越前国織田荘(福井県越前町)にありました。織田家は越前を治める斯波家の家臣となり、その斯波家が越前に加えて尾張も領有することとなったため、主家の命を受けて尾張に移ったのです。
 7代将軍義勝の時代に尾張守護代を務めていた織田郷広(おださとひろ:?~1451)は、素行不良を理由に主である斯波義健から義絶されてしまいました。素行不良とは、具体的には家臣たちの略奪を防止せず放置していたことを指すそうです。
 斯波義健は、郷広の子・織田敏広(おだとしひろ:?~1481)を尾張守護代に据えましたが、郷広・敏広の父子仲はかなり悪かったらしく、郷広は赦免を求めて運動を繰り広げました。
 このとき、14歳の義政には実母・日野重子と管領・畠山持国がブレーンとして付いていたのですが、義政自身は何かと意見してくる母を疎ましく思ったようです。その母とつるむ持国も嫌だったのでしょう。
 そこで義政が頼りにしたのは乳母・今参局(いままいりのつぼね:1404?~1459)でした。今参局は大舘満冬(おおだちみつふゆ)の娘であり、義政が産まれて間もない頃から育ての親として接してきました。義政の32歳年上ながら、義政成長後も毎晩夜伽を務めていたなどの噂もあります。
 郷広はその今参局にターゲットを定めて運動したらしく、今参局の取りなしにより義政は敏広を更迭して郷広を守護代に据え直すと決定しました。これには当然、斯波義健は反発しますし、斯波家中の有力者である越前守護代・甲斐常治も抵抗しました。管領・畠山持国も管領の執務を停止してまで抗議しました。
 翌宝徳3(1451)年9月には、日野重子が嵯峨に出奔し、
「守護代の人事は守護に任せるべきであり、このような形で(斯波)義健が面目を失うのはよろしくない。斯波家は将軍家にとって大事な一族であり、義健の憤りをないがしろにすべきではない」
と述べて抗議しました。
 母親が家出をしてまで抗議したことを義政は強く受け止め、やむなく自身の決定を翻しました。今参局は謝罪文を提出し、尾張守護代の座は敏広へと戻ったのです。
 この一件は将軍義政にとって最初の挫折となりました。

大河ドラマ『花の乱』では、日野重子を京マチ子が演じており、こわーい母親でした。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集